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◇◇イエス・ブッダの救い◇◇

1 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/17 22:00
―そして「やすかれ」と言われた―イエス
 ―安らぎは虚妄ならざるものである、諸々の聖者はそれを真理であると知る―ブッダ

―世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つの
ものに、一切のものが従属した。―ブッダ

  一切のものが、邪念に従ったとされる。だから、信仰というものがある。人は
  悪いものに従わなければ、自分を信じて生きればよいのだから。邪念に従わな
  かった聖者の言葉に従う者は真理に従うこととなる。
  
〜広く一般的にある理屈をとおして、あなたが信じているものの信仰の優位性をできるだ
 け説明して下さい。聖者には言葉があり、その言葉から信仰の優劣と人はどうすれば救
 われるかを問うスレです〜
  

2 :Gocc (極猫) ◆HswindowsI :03/12/18 00:15
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3 :名無しさん@3周年:03/12/18 00:22
優劣
このスレ<<<<<<<<<<<<<<他のスレ全部

4 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/18 19:58
「苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びる
ところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、―
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは輪廻を終滅させることができない。
かれらは実に生と老いとを受ける。」ブッダのことば

出家修行僧は、消滅という最上の喜びの境地の世界に死後赴く。林の中で瞑想し、妄執を消滅
させて、永遠の安らぎに赴く。在家信者は次の果報を受けるという。

「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダと真理
の教えとに対して信仰心あり、熱烈な尊敬心をもっているならば、かれらは天界に生まれて、そ
こで輝く。もしも人間の状態になっても、富裕な家に生まれる。そこでは、衣服、食物、快楽、
遊戯が労せずして手に入る。また来世には他人の貯えた財物を、他化自在天のように、喜び楽し
む。現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる。」

真理の教えに対して熱烈な尊敬心あり受け入れる心があれば、快楽や享楽に耽溺せず自制する
者、わかち与える心得のある者となり、良家の息子と子女に生まれる。または天界に生まれる。



5 :名無しさん@3周年:03/12/18 20:45
即刻削除依頼出せ

6 :名無しさん@3周年:03/12/18 21:58
ブッダのことばとは、スッタ二パータでしょ?
誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。
だから聖者は何ごとについても心の荒むことがない。
(悪意についての八つの詩句)ということですね?

7 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/20 00:52
「あの世もこの世も望まない」ブッダ 富裕な家に生まれようと欲して信仰している者は、富裕な家に
生まれないでしょう。

ブッダの言う消滅とは何か?肉体に生まれるより、霊体に生まれるほうが安楽であると言う。霊体に生まれる
より、消滅のほうが安楽であると言う。その消滅の世界とは、
「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死の
集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、―それは喜ぶに足りない。
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静ま
った安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、
月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
来ることも無く、行くことも無く、生じることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠
することも無い。―それが苦しみの終極であると説かれる。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは、月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがま
まに、かたちも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいも無い人は生存の矢を断ち切った
人である。これがかれの最後の身体である。
これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解
脱の境地である。
自分にひとしい、あるいはひとしくない生まれ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去った。内
的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、自分の覆いを破ってしまった。教えを説いて与えることはすべ
ての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、
妄執をすべて滅ぼすことはすべての快楽にうち勝つ。」ブッダ感興のことば 26章ニルヴァーナ

この上なき最上の喜びの境地は全てに勝り、それと対比してこの世は苦であると説く。形成されるも
のの消滅と境地だけの世界があるわけだ。


8 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/22 20:02
「安らぎは虚妄ならざるものである。」ブッダのことば  迷いなき悩みなきこだわりなき安楽な境地

すべては、夢か幻か水の泡か陽炎のごとく、一切は虚妄であると知る。すべての思い煩いは消えうせ、安穏
の境地を知る。解き放たれること、遠ざかり離れることの境地はこのようである。自分の思い煩いは、ほ
んの僅かなことと感じられよう。この上なき最上の喜びの境地ニルヴァーナを得て、死ありという見解を
超越する。そして、勇気とどのようなこともできるという自信が湧いてくるだろう。

しかし、妄執というひとつのものに敗れてそれを失う。通常の意識活動に戻るのだ。

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。
人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。」神々との対話

人は妄執によって悩むものになった。清浄な心は悩まない。
「走っても疾走ぎることなく、また遅れることなく、『一切のものは虚妄である』と
知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。」ブッダのことば
つまらぬことへの悩みごとが生じたら、悟りの境地「すべては水の泡か陽炎のごとく、
一切は虚妄である」と念じて悩まない。





9 :名無しさん@3周年:03/12/22 20:45
イエスとブッダは同一人物

10 :名無しさん@3周年:03/12/22 20:48
イエスと老子とアポロニウスは同じ魂

11 :名無しさん@3周年:03/12/22 20:54
>>1-10は同一人物

12 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/23 20:03
ブッダ「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つの
    ものに、一切のものが従属した。」神々と語る
    妄執を打ち破り、執著を滅ぼし、煩悩の束縛と迷いの生存への生まれかわりとが滅び
    去った究極の境地に到達した人、ブッダ。いまだかつて渡った人のいないこの激流を
    渡り、彼岸に到達した人。
    キリスト教でいう原罪なき状態に達した人となり、神の望みに達した人(ブッダのこと
    ば ダニヤ)
    出家修行者も在俗修行者も、ブッダの真理の教えを聞き修行する。安息の境地ニルヴァ
    ーナから教えをさとす聖者なので、安らぎについて深く学ぶことができる。
    「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに
     みずから満足すべきである。」―妄執によって導かれた世間からひとり遠ざかって自
     然の中で瞑想する時、人は安息の境地ニルヴァーナから遠くへは離れてはいない。

イエス「人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために。」
   「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
    父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。御子を信じる者は永遠の命をもつ。
    御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる
    のである。」
    本来なら、妄執という邪念に従った人々は、妄執というものを全て滅ぼす修行によって、
    妄執を滅ばした後、神の望みの者となり、さまざまな裁きから逃れることができる。し
    かし、イエスにその罪をゆるす権威を与え、イエスを信じることにより、永遠の命に至
    る者となり、裁かれない者となる。
    

13 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/25 20:55
ブッダ「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、
    苦悩から解脱しないのである。」しかし、「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている
    人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれないからである。かれらは、未来をも過去を
    も顧慮しながら、これらの目の前の欲望または過去の欲望を貪る。かれらは欲望を貪り、熱
    中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する、―
    『ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか』と。だから人はここにおいて学ぶべき
    である。世間で『不正』であると知られているどんなことであろうとも、それのために不正
    を行ってはならない。『ひとの命は短いものだ』と賢者たちは説いているのだ。」
    「智慧をまず第一に重んじていて、善を学び、それらの危機にうち勝て。奥まった土地に臥す
    不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。
    ―すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜はわたしは眠り
     ずらかった』『今夜わたしはどこで寝ようか』家を捨てて道を学ぶ人は、これらの四つの憂
     いに導く思慮を抑制せよ―」
    


14 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/25 21:11
イエス「―それだから何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、
    何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだ
    は着物にまさるではないか。〜ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べよう
    か、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」
   「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
    一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

 未来をも過去をも顧慮することなく、今現在、何事も悪いことがないことに喜ぶ者は、安楽
 を得ている。欲求と快、不快との思いを超越した者は安穏を得ている。
    

15 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/26 20:10
肉体がなければ、「わたしは何を食べようか」などという思いわずらい(憂いに導く思慮)も
ないだろう。「かれらは、未来をも顧慮しながら、これらの目の前の欲望を貪る」しかし、す
べてについてあすのことを思いわずらうことのない者は、真理に安住している。安らぎの国に
は思いわずらいがないから。

「智慧をまず第一に重んじていて、善を学び」ブッダのことば
「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神
の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえて
知るべきである」聖書ローマ人への手紙

邪念に従った私たちは、真の善を知らないか不完全な善のままであると言えないか?世間も妄執
によって導かれたもの。世間からも完全な善を知ることはできない。

ブッダの修行僧のように、一切の所有物と家を捨てて、神の創造した自然の中で瞑想し、妄執を
打ち破る修行で原罪なき人になるのは最も善いことかもしれない。「他人が解脱させてくれない
からである」

しかし、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者
がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさ
ばくためでなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。
信じない者は、すでにさばかれている。」ヨハネによる福音書
イエスを信じる者は、永遠の命を得る。イエスを信じない者は、悪を行っていて光を憎む者。御言
とイエスの行いを知って、イエスを神の子と信じる者は、永遠の命を得る。



16 :名無しさん@3周年:03/12/26 22:50
信じることが救われるのはおかしい

17 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

18 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/29 10:26
>>16
神を信じ、永遠の命が存在するということを認めること。しかし、私たちは神から離れ、悪い思い
(邪念)に従って存在する者なのです。そして、裁かれるために生きていること。死んでも裁かれ
る運命にあること。裁きから逃れられないのです。

「宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』
とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。」イエス
人は存在そのものが、罪のうちにある。ブッダも「思考の及ばない静かな境地」と言っているように
、善悪の知恵をもってする判断さえもが本当は、罪のうちにあるのです。

「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼
な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての
事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、
子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」イエス

天地の主なる父は、どのような存在か。あわれみの存在であるということをイエスは現して下さい
ました。「本当はそうなんだ。」とイエスを信じ、全てのことよりもあわれみが正しいと自らの心
のうちで受け入れ、罪が赦されるのです。

19 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/30 09:18
「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれは
過失(道から外れること)は存在しない。かれは迷妄に陥ることがなかった。かれは、思慮
深き者として、常に気をつけている。罪過を告白して(懺悔するのを)受けいれない人は、
内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう。その怨恨を、わたしは喜ばない。そなたの
罪過(の告白)を、わたしは受け入れる。」ブッダ 神々と語る

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてや
りなさい。もしあなたに対して一日に七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰っ
てくれば、ゆるしてやるがよい。」イエス

人間の修行完成者ブッダは、人間同士の罪過について語る。そしてブッダは自ら、人間が
神に仕える者の手本として生き、教えを説く。罪のゆるしのイエスが現れる以前、一切の
所有物を捨て去り世間から離れ、妄執を打ち破るため、自然の中で瞑想した。それが、最
も善なることだから。しかし、イエスが神の右に座しイエスに対して「神様、罪人のわたし
をおゆるしください」と懺悔する者は、人の暮らしも許される。イエスは天に昇られる以
前、終わりの日まで「私にそのようにしていなさい」と言葉を語られた。


20 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :03/12/30 23:15
「わたくしは何ぴとの傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人
に傭われる必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
ブッダのことば
「友よ。わたしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そ
うではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界
の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。
 歩行したからとて、いつになっても世界の終極に達することはできない。
 世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。
 それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に
 至る人となるであろう。かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世もかの世
 も望まない」ブッダ 神々と語る
 
たとえ終わりの日があろうとも、聖者は「苦悩の終結の日だ」と語るでしょう。
「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、
何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わき
まえて知るべきである。」聖書 ローマ人への手紙 
この世と妥協している信仰やこの世のことからの哲学は、真の安らぎを得る教えではない。

21 :名無しさん@3周年:03/12/31 04:10
3
◆教派いろいろ対照表 ローマ・カトリック 東方教会 
ルーテル派 聖公会 改革長老派 会衆(組合)派 バプテスト メソジスト
 http://member.nifty.ne.jp/ryp/kurihon/kurihon18.htm

◆御ミサの祈りの流れ http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1052740065/126-132n
◆今週の御ミサ http://salveregina.dyndns.org/avemaria/mass.html

◆聖金口イオアン聖体礼儀(主日)
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1125/inori/dl..html
◆正教会の奉神礼・機密・伝統習慣(2)
 http://plaza15.mbn.or.jp/~fnagaya/Dento2.htm
◆コンスタンチノポリスでの第二回全地公会議の信経(381年)
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1125/symbol/nikekon.html

【 主の祈り目次 】http://www.ss.iij4u.or.jp/~ana/inori.htm
◆「Christus Rex et Redemptor Mundi」→「JERUSALEM - PATER NOSTER -」→
 →【J JAPANESE】http://198.62.75.1/www1/pater/JPN-japan.html
 →【G KOINE Greek】http://198.62.75.1/www1/pater/JPN-gr-koine.html
 →【G Greek】http://198.62.75.1/www1/pater/JPN-greek.html

【 キリスト教の思想信条 】
◆カトリックの祈り http://www2.odn.ne.jp/~aai50550/kirisutokyo-02.htm
◆三大信条(ルーテル派) http://www.remus.dti.ne.jp/~hiromi-y/sinzyou.html
◆東方正教会の基本信条 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1125/symbol/index.html

【 キリスト教書専門書店 一覧 】         
http://www.asahi-net.or.jp/~hn3y-srt/menu/syoten.html
d

22 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/01 16:15
人間が永遠の命の境地を得て、究極の安らぎに到達したブッダの言っていることは、確か
に正しい。一切の所有物を捨て、呪われた世間から離れ神のお創りなさった自然の中で
瞑想し、妄執という原罪に打ち勝つための修行は、地上の人間にとっての唯一の正しい道
で、究極の安らぎに近づいている。
私は究極の安らぎと、死を感じることのない境地を体験し、しかも、妄執を受け入れてし
まいその境地を失った。妄執は破れるものではないのです。だから、世間から離れ、自然
の中で瞑想し、静けさと安らぎを得るブッダの修行方法は正しいと言えるのです。

人は知らないうちに邪念に従い、その人々の造りなす世間と人々は裁きのために未来に向
かっている。なぜなら、「世間は妄執によって導かれる」ブッダと言っているように、世
間は邪念に従った人々が造りなしたもので、このまま行けば艱難の後に滅んでもしかたの
ない運命にあると思えてしまうからです。

しかし、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」聖書
見捨てられて当然の世と共に生きる人々にも、救いの手が差し伸べられたのです。


23 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/01 16:22
本来は、ブッダのように一切の所有物を捨て、自然の中で瞑想し、妄執をすべて
滅ぼす修行によって、神を知る人とならなければ裁きから逃れることはできない
にもかかわらず、神は人間をも見捨てることはなかったと解しても良いでしょう。
仏になることによって当然裁かれないのではなく、イエスを信じて裁かれない者
となるのです。だから、イエスに罪をゆるす権威を与え、イエスを信じる者は終わ
りの日に救われるのです。当然、信じる者は御言も受け入れるでしょう。

「さばきのことは子にゆだねられたからである。」聖書 イエスは誰も裁かない、罪
をゆるしたかわりに、信じる者を救いに来る存在なのです。しかし、裁きのことは
子にゆだねられ、哀れみ愛した者を信じる者は救うとされたのです。

別にイエスは「神はどのようなこともできる存在である。」と言い、その証明のため
山を動かし、海の中に入れる奇跡を起こし、神を敬え、そして私を信じ御言を受け入
よ、そうしたら私は終わりの日に救済に来ると言ってもよかったのです。しかし、イ
エスは哀れみ愛した者を敬い信じる者を終わりの日に救済しにくるとしたのです。


24 :名無しさん@3周年:04/01/02 02:31
pu


25 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/02 10:42
「さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」それは、決して見ることは
できない父の現しかたをイエスにゆだねられたということです。山を動かし、海の中に
入れることもできるのが父であるが、中風をわずらっている人を治して生まれさせるの
も父なのです。さらに父を正確に敬い水と霊になって生まれるのです。父を正確に敬う
ということは、イエスを敬うことなのです。
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたか
たを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っている
のである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の声を聞く時が来る。
今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」イエス
「子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」イエス

イエスを神の子とするあかしはどんな人にもできないが、永遠の命を知ったならば、イ
エスは神の子と信じることはできる。しかし、神の国、永遠の命の国なら少しは理屈で
現せることができる。それは、人が霊となって生まれる国だから。しかし、人は神は証
明できない。イエスと神を信じるほかないのです。


26 :イスラムの実態:04/01/02 16:22
http://www5d.biglobe.ne.jp/~taira/

第73話 サウジでの放送禁止用語

Vixen : 雌ギツネ
Nude : 裸体                 Adulteress : 姦婦
Socialism : 社会主義            Whore : 売春婦、尻軽女
Christian : キリスト教徒          Hussy : おてんば娘、浮気娘
Christmas : クリスマス
Chorus Girl : コーラス・ガール(その他の意味は不明) I Am Ready for Sexual Offers : やってもいいわよ(?)
Kiss Me : キスして             Cupid : キュービッド
Lust : 色情、肉欲              Bible : 聖書
Pussy Vice : 子猫ちゃん、プッシー      Vicar : 教区牧師、教皇代理
Bastard : 私生児、雑種           Atheist : 無神論者
Buy Me : 買ってよ Madonna : マドンナ
Charming : 素敵な、魅力的な(それ以外の意味があるのかな?) Dram : ドラム=1.16オンス、ウイスキーの一口 (太鼓のdrumではない)
Vice : 悪徳 Spirit : 酒精、アルコール
Bawdy : 猥談 Brandy : ブランディー
Eccentricity : 風変わり、奇抜、奇行 Tippler : 大酒飲み、酒豪
Flirt : 恋をもてあそぶ、いちゃつく Nike : ギリシャ神話の勝利の女神ニーケー


27 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/02 20:38
ブッダもまた、人の罪なき者となり永遠の命を得とくしました。人は罪のゆるしの権威を
与えられていないので、人々に求法者として罪なき者になることを教えられたのです。

「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねば
ならぬ。足ることを知り、わずかな食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、
諸々の感覚が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。他の
識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生ける
ものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。〜あたかも、母が己が独り子を命を賭けて
護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意を
起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。〜
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」ブッダのことば 慈しみ

永遠の命には「識別作用」がない。肉体を失えば物事を識別することも、様々な判断もない。
平安の境地があり、それが肉と結びついて慈しみのこころとなるのである。

28 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/02 20:42
「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父な
る神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない
者にも、雨を降らして下さるからである。〜それだから、あなたがたの天の父が完全であ
られるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」イエス
「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽
んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさば
きの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのお
のに、そのわざにしたがって報いられる。」ローマ人への手紙

あの人がこうだから正しい、正しくないとの思いを避け、悪い者を憎むことなく、自分の
意にかなった者のみ愛することなく、すべての人々に慈悲深い者となること。
終わりの日すべてがなくなる時、人々は言葉どおりの世界を知るでしょう。イエスの言葉
を受け入れていた人々は永遠の命に至り、受け入れない人々は天地が滅びた時、受け入れ
ないままの世界に入る。それは、安らぎとは程遠い、神の怒りの世界かもしれない。


29 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/03 01:14
ブッダ
「平安の境地に達してなすべきことは」妄執を打ち破り、罪なき者となり平安の境地に達する。
イエス
「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。
 〜わたしを捨てて、わたしの言葉を受け入れない人には、その人をさばくものがある。わたしの
 語ったその言葉が、終わりの日にその人をさばくであろう。」人の子は地上で罪をゆるす権威が
 あるので、言葉を受け入れることでよい。また言葉を受け入れない者はイエスを捨てる者。
 
ブッダ
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。」
イエス
「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。〜いと高き
者は恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、
あなたがたも慈悲深い者となれ。」

信仰において必要なことは新約聖書に書いてある。人々がこの世において生きる心得も、永遠の命
を得ることも。仏像を拝むことが信仰でない。ブッダはそのようなことを言ってはいない。一切の
所有物を捨て自然の中で瞑想し、妄執を打ち破ること。それは、ごく僅かな人々の行える行為であ
り、仏教で他の方法によりそれを達成できるとする者があれば、ブッダを尊敬する者ではない。そ
れは偽りの宗教である。

30 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/05 10:05
ブッダ
「あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも
害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昴まり増すことのない道の人―かれは温和
な人である。全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世と
を厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、―かれは自己を制した人である。
あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを二つながら思惟分別して、塵を離れ、汚
なく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、―かれを目覚めた人ブッダという。」
 ブッダのことば(スッタ二パータ)

イエス
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである。もしあなたの右の目
が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄
に投げ入れられない方が、あなたにとっては益である。」

情欲と情欲にもとずく行為は、信仰をしている者もしていない者も、それらが正しく清い
行為であると認識する者はいない。霊の世界は肉の感官のない世界だから、言葉を受け入
れるのは重要なことだが、イエスを信じ主の再臨を願っている者は、修養しなくとも情欲
をいだいて女を見ないようになる。

31 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/06 00:01
イエス
「いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地
をさして誓うな。そこは神の土台であるから。」

「むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。」コロサイ

「愚かで無知な論議をやめなさい。〜主の僕たる者は争ってはならない。」テモテ

ブッダ(スッタ二パータ)
「一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的をも捨て、「清浄
である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれず行え。
―安らぎに固執することもなく。」

「一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。」

「論争の結果は称賛と非難との二つだけである、〜汝らは、無論争の境地を安穏であると観
じて、論争をしてはならない。」

聖者は地上にあるものではなく、肉の思いからではなく、それらを廃した永遠の命から教え
を説く。受け入れることがイエス、修行して得ることがブッダ。何が地上のものか、何が命
か、まずそれらを分別しないと信仰をしても永遠の命に至らないでしょう。

32 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/06 21:09
永遠の命からくる言葉は受け入れねばならない。たとえその言葉どおりのことができなくとも。
「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ること
は、悪から来るのである。」イエス

「悪人に手向かうな。」霊にあれば善悪の認識もなく、手向かうのは肉であり、霊は手向かう
という思いはない。
「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あな
たをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には
与え、借りようとする者を断るな。〜敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
自分の認識や思いどうりのこと、自らの利にかなったこと、自分を愛する者、自分を称賛する
者に人は労するが、ただそれは肉に仕えているに過ぎない。自分の肉に仕えたからといって、
霊に生まれるわけでもない。より肉の者になるだけである。

ブッダ「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」
天にある者が人の幸福と安穏を願うように、地上でそのようにする者は、天上に生まれる。
言葉を受け入れる者は、天を受け入れた者。
ブッダ「人々は『わがものである』と執著した物のために悲しむ。」霊には、執着もないし、
物への愛着からくる苦しみもない。たとえ、自分の意を害おうとも、相手の意向に従ってあげ
るのが善行と言えるだろう。

33 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/07 21:15
「あなたがたは自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなこ
とは取税人でもするではないか。」「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思う
な。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその
父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、
その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしく
ない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」イエス

悪魔パーピマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもと
のものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
師は答えた、
「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著
するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」ブッダ
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い
の生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。―スッタ二パータ

人を憂いの対象とあらかじめ心得ておくこと。互いに人の思いに拘束されて、自由を奪わ
れるのは嫌なものだ。

34 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/08 20:26
人間の愛情は不完全なものでしょう。また、人が平和を求める心は、周りから自分の安泰
を確保することが平和と思ったり、他人の意向や趣き、主義などを犠牲にしても、こちら
側の押し付けの平和な生き方を他人に望んだりするのではないでしょうか。聖者はそうで
なくて、永遠の命にあるものを説いているのであって、修行によって得るのがブッダ、罪
のゆるしと命の言葉を受け入れれば救うとするのがイエスなのです。そして、結果として、
地上に平安をもたらすものなのです。

ブッダ
「この平安の境地に達して〜また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下
に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを起こすべし。立ちつつも、歩みつつも、坐
しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。こ
の世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。―決して再び母胎に宿ることがないであろう。」
イエス
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者に
も、雨を降らして下さるからである。〜あなたがたも完全な者となりなさい。」
「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。〜あなたがたも慈悲深
い者となれ。」

これらの聖者の言葉が無意味に思えたなら、罪深い証拠でしょう。相手がどんな状態でも、神
を信じて寛容で赦し愛することができたら、その人に苦痛はなく神の国に入る一歩なのです。
どのような者をも慈しむ国に入るには、どのような者を慈しめという最も重要な言葉を受け入
れねばなりません。


35 :名無しさん@3周年:04/01/08 20:53
>>26
Christmas : クリスマス
Bible : 聖書
Christian : キリスト教徒

なぜこれらがだめなんでしょう?

36 :名無しさん@3周年:04/01/08 23:51
イスラムの民は言霊を信じてたりしてw

37 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/09 22:57
「偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを
知っている。というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にある
としても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯
一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。」
コリント人への第一の手紙

「プンナンカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧
げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げ
たのである。」「ブンナンカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利益を得
ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供儀に専念している者どもは、こ
の世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」
ブッダのことば スッタ二パータ

仏像を拝むこと、呪文や占い、寺院、宮参りなど人々は現実以外の力を信じて、希望し熱望
して献供し願い求めるが、肉への思いを断ち切れていない。聖者は永遠の命にあるものを地
上で受け入れる、求めるよう教えている。肉にないものとは肉への戒めであり、人が生きる
にあたって、自らの利にならないもの、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、静けさ、
愛である。肉体が朽ちる時、地上の思いも全て終わるのであるが、天上にあるものを受け入
れる者は、それによって自らの終わりを見ることはない。


38 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/10 10:56
イエスキリストは、祈りによっても人のこころが天にあるよう教えられた。人は自分の力
を信じることなく、多くの人々に福音を述べ伝え、イエスを信じみこころが地におこなわ
われるよう祈ることにより、魂が浄化されるのである。

苦しんでいる人々をあわれんだイエスを主であると信じ、御名があがめられ、苦しむ人々
を助けるような社会が来るように、争いや苦悩のない平安な世界が来たりますように祈り、
自分の欲望のためには祈らない。地上の自分の欲求はありませんから、わたしたちの負債
をおゆるしください。わたしたちに天上のように災いなき日々が送れるよう祈る。

「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の
感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。他の識者の
非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」ブッダのことば

「『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。これらは皆、使
えば尽きてしまうもの、」コロサイ人への手紙
さわるな、味わうな、触れるなという行いによってではなくて、上にあるものを思い、地上
のものに心を引かれることなく、心が天にあること。それが、みこころが地におこなわれ、
地上の人々が平安であり、安楽であれと祈ることなのです。


39 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/11 10:38
イエス
「ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着よ
うかと言って思いわずらうな。」
ブッダ
「『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜わたしは眠りづらかった』
『今夜わたしはどこで寝ようか』―家を捨てて学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮を抑制
せよ。」

「智慧をまず第一に重んじて、善を喜び」―世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、そ
れらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する
貪欲を抑制せよ。修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する
欲望を抑制せよ。かれらは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
 ブッダのことば

「もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。だれも、ふたりの主人に
兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうと
んじるからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。それだから、あなたが
たに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着
ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。」イエス

一旦は、永遠の命の境地を得ながら、地上の欲望への思いが勝っていたため妄執に敗れた。その
経験から、その聖者の言葉は重要であるとわかる。肉体があったので現在の通常の境地に戻っ
ただけでよかったが、肉体がなくなった死後、永遠の命より妄執に敗れたらどうなるのだろう?


40 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/12 18:57
肉体がなくなれば、肉体を喜ばせることはない。それらは、邪念に従ったから人のうちに
生起したもの。色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲に縁って暗黒を
喜び、生きているうちはそれでも不幸はないかもしれないが、死ねば決して光に赴くこと
はないだろう。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思いわずらう心に
縁って内なる光が暗くなり、暗黒を喜ぶようになる。

聖者は、地上の人間の考え出した戒めなどではなく、天上にない思いを悪とし、天上にあ
る思いを善としている。有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れら
れるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべき意に適うものは、地上にあって、
天上にはない。天上には別の喜びがあり、地上でそれを愛していること、求めていること、
天上にあるものによって喜ぶこと、また、地上で天上にないものを追い求めないこと、で
きれば断ち切ること、天上にないものを正しいと思い込まないことなどを教えている。

今、生きているうちにそれらの暗黒にこころが魅了されている者は死後滅びに至り、命に
あるものにこころが魅了されている者は、死後命にいたる。

平和といって、豊かさを喜び、科学や文化などを推し進めていたとしても、それは地上だ
けのものであり、命にいたる道ではない。


41 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/13 20:45
「わたしは人からあかしを受けないが」ヨハネによる福音書―イエスを神の子とするあか
しは誰にもできない。しかし、永遠の命のあることを知ったら、イエスは神の子であると
確信するでしょう。それに御言はそのまま素直に受け入れなければならないものになり、
それに背く者は永遠の命を失う理由を知る。

ブッダも「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一
つのものに、一切のものが従属した。」と言ってるように、決して死を味わうことのない
境地を一旦は得たにもかかわらず、自分の欲念を持っていたが為に、悪魔のことばを受け
入れてしまいその境地を失った。

全ての人々がそのような悪魔のことばを受け入れ失楽したということ、悪魔のことばはそ
の時代、またはそのひとりひとりに違った妄執を投げかけるかもしれないが、私は新約聖
書に書いてあるような悪魔のことばに敗れた。多くの人々は、そのような妄執に敗れてい
るだろう。それは、

「またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、『これらの国々の権威と栄華とをみ
んな、あなたにあげましょう。それはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげ
てよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あな
たのものにしてあげましょう』。」というような感じの妄執である。


42 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/14 20:24
イエス
「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日
の苦労は、その日一日だけで十分である。」

―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はど
うしてあのように明朗なのであるか?―
ブッダ
「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくす
ることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、その
ために、萎れているのである。」神々と語る
「家を捨てて、住所を定めずさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲
望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならな
い。」「動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存
在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。」ブッダのこ
とば

あすのことを思いわずらうことなく、未来に望みをかけることなく、現在も諸々の欲求か
ら離れ、ただ現在のことだけで暮らしている者。邪悪な妄執に囚われることなく、こころ
の平安を築き、至るところに安穏を見ると。森に住み、心静まり、平安なこころが揺ぎ無
い者は、この世とかの世とを共に捨て去ると。


43 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/14 23:27
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのもの
に一切のものが従属した。」ブッダ

―森に住み、心静まり、清浄な行者たち〜というように、世間との交わりを捨て、世捨て
人として神の御創りなさった自然の中で原罪なき者となることを目指したブッダの修行法
に対して、
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者
がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あな
たがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝
っている。」ヨハネによる福音書
「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、
何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえて知るべきである。」
ローマ人への手紙
「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困ってる孤児や、やもめを見舞い、自ら
は世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない。」ヤコブの手紙

世間は妄執によって導かれるというように、この世と妥協してはならないとあるように、聖
者は世の汚れに染まらないことを信心として教えている。しかし、神はこの世を愛して下さ
り、世間にいながらイエスを信じることにより滅びないで、永遠の命を得る。


44 :サバクタニさん:04/01/15 19:22

ブッダの教えを煎じつめて煎じつめて煎じつめて・・・、具現化したのがイエス___という説、
どう思われますか?

45 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/15 22:16
>>44
「真理は一つで、第二のものは存在しない」ブッダ
肉体を失い、しかも、永遠の命に到達し、そこにある真理は一つしかないので、
似たような教えになる。人が真理に目覚めたとするのがブッダの立場、神の子
としてこの世に現れたのがイエス。イエスは真理を全ての人々に受け入れ易い
ようにした。ブッダは安らぎに到達する道を、原始仏教でより詳しく説いてい
る。しかし、多くの人々にとって重要なことはイエスの教えだと思う。


46 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/15 22:25
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」
しかし、私たちは自らの明日の権威と栄華、繁栄を求めて、あるいは金銭を欲しあくせく働
く妄執を内に抱える者となり、死を味わう者となり、悩みなくこだわりなき平安と安らぎの
こころの喜びを失った者になった。人知ではとうてい測り知ることのできない迷いなき不動
の喜びの世界があるにもかかわらず、人は欲望のため拒絶するのである。
死後、至上の喜びと慈しみの世界に入るか入れないかは、今生きている間に至上の喜びの世
界にあるものを受け入れていなくては入れません。

地上のことをいくら受け入れていても、至上の喜びの世界には入れません。至上の喜びの世
界にあるものを受け入れているからこそ入れるのです。しかも、地上のものへの思い入れよ
りも、天上にあるものの思い入れが強くなくては入れません。

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は
苦悩から解脱しないのである。」ブッダ とあります。
まず、妄執に従わないような生き方が重要なのです。天は妄執に従っている者を気がつかせ
る為なのか、「世を興亡盛衰」させるとあります。そして、
「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、良き心
あり、こだわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって。」

自分の、あるいは自分たち会社組織の権威と栄華と利益拡大を願って活動しても、それに囚
われ一生を過ごしても、この世のことのみに終わってしまうのは確実です。

47 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/17 10:52
悩みなき、こだわりなき、思い煩いのない完全なる喜びの境地。その境地では一切は虚妄
であると感じて、自分のこの世の悩み、思い煩いはほんの僅かなことと感じられた。それ
は慈愛の喜びであり、寛容である。それは、責めるというこころが一切ないから。至上の
喜びと共に、死なないと感じられ、勇気とどのようなこともできるという自信に満ち溢れ
た境地である。その境地は、人間の造ったどのようなものでも、それを享受するこころで
離れ、自然を愛するこころで近づく。
その境地を知らなかったならば、ブッダもイエスも信じなかったであろう。ブッダはこの
上なき最上の喜びの境地ニルヴァーナと表現し、聖書では「自分の内に宿っている聖霊」
と表現している。
だから、ブッダの修行僧は、世間から一切離れ、自然の中で瞑想し、肉体からくる想いを
断絶する修行によって、妄執を打ち破りそれを得ることを目的とした。
しかし、聖書に「主につく者は、主と一つの霊になるのである。」とあるように、人々の
罪のゆるしと、罪の代償として十字架に架けられたイエスキリストを信じることで、救わ
われる。しかし、生存者は全て罪の内にあると認識せず、慢心で自ら正しい者と自認して
驕っている者は、神に罪のゆるしを乞うことはない。そのように、御言を受け入れず、自
らの思いのほうが正しいと認識している者は、邪念を愛し、天上を受け入れない者だから、
主はその人を救わないであろうし、裁きを受ける運命になるだろう。
人の造ったこの世で生きる限り、誇れることも、正しいと自認し主張できることも何もな
い。人々は邪念に打ち破れ、それに従い、むしろそれを正しいこと、喜ぶべきことと認識
さえし、永遠の命を失い、悪い報いを受けるために活動する者となったということを知っ
たのである。

48 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/17 23:32
妄執は聖なる思いより、欲望を望んでいたかどうかを試すように人のこころにまとわりつい
てきた。それまでの人生が欲念のある人生であったか、神聖なるものを求めていたかを試み
るようであった。勿論、この世のことしかこころがなかったので、妄執を打ち破ることはで
きなかった。その時、人は妄執に破れた存在であると知った。
その時、私が破れた妄執は、自分の権威や栄華を追い求め拡張しようとする野望のような妄
執であったが、ブッダのことばでは「妄執のために他人に逆らうことがなく〜生存のための
妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」とあるように、永遠の命を断ずる妄執は
一つではない。

自分の利益を追い求め、自分の権威、地位、名誉を追い求め、自分の栄華、繁栄、豊かさを
追い求めるこころは、全て悪魔に従っているのである。それらは、さほど悪いことではない
ように思いがちだが、それらも邪念の内にあり、この世の者でしかなく、永遠の命は得られ
ない。
「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」イエス 「人は利を求めて自分
を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない。」ブッダ
「詩を唱えて報酬として得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このこと
は正しく見る人々のならわしではない。詩を唱えて得たものを、諸のブッダは斥ける。バラ
モンよ、定めが在するのであるから、これが目ざめた人々の生活法なのである。」ブッダ
托鉢で得た乳粥も、詩を唱えた報酬で得たものとし、それをブッダは受け取らなかった。

ブッダは自活しみずから養うことはなかったが、自活しみずから養うことは良いとしても、
人々から自分の利益を求めること「他をならかしめて自らの利を欲してはならない。」(ブ
ッダ)は、やもえない場合を除いて、許されることではないでしょう。


49 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/18 10:44
「神は万物を彼の足もとに従わせた」「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、
神の怒りがその上にとどまるのである。」聖書
神はイエスに万物をお与えになったのです。万物を支配しているのはイエスと信じることが
信仰。この時点で、世間を離れ神の御創りなさった自然の中で、ひとり遠ざかって暮らす生
活により神から義とされねばならない行いをしなくてもよくなったのです。

人は悪魔に従い、世間においても人々から利を欲し、世間に対し、人々に対し様々な欲望を
持つ者になった。それは、人々に対し自分の権威を誇らしめる、栄華も人々の労働というも
のがなくては成り立ちません。そのように人々に対し、自分のこの世の利を欲しこのように
して欲しいと望むことは悪なのです。金銭を求めることも、それを使い世間からなんらかの
利益を享受しようと思いの現れでもあります。たとえ良いことであっても、神でない限り、
人は人に対してなんらかを行えとは言えないと思います。行為は人の労を生むから。しかし、
人を思い、自分が信じているものを信じて下さいとは言えるのです。

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」イエスが万物
を支配するようになってから、この世もその律法が存在するようになりました。人々のため
を思い天にあるものを地にもって来られたのです。天の父がそのような方だから、地上でも
天の父の習いをせよということです。地上を欲すれば、自分が動いて人々にそのようにして
あげなさいということです。自分の体があるのに、欲するままでは天にも行けないし、人々
を喜ばすことさえできない。

50 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/19 21:01
イエス
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。〜
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。〜
天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
ブッダ
「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。」とも言われているよう
に、天の父の良いものとは、地上のことではなく、天上のことである。
ヤコブの手紙
「あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使お
うとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であるこ
とを、知らないのか。」

天上のことを思い求める者に天の父は、良いものを下さるという。天の父は天のことが良いもの
だから、天のことを与える。人が地上で良い思いをしようとして、天に願い求めても与えられな
い。ブッダと修行僧は、森に住み、日に一食を取るだけであるが、それでもこころの安らぎを得
んとして修行に励んだのだ。地上のことを思い願い求める者は、聖者の言うことに反し、神なら
ぬ悪魔に願い求めている。その者のこころが悪だからである。悪魔を神と思っている人々の死後
はどのような裁きを受けるのだろう。

天の父が、求めてくる者に天の父が良いとされるものを下さるように、人は人々からしてほしい
と望む欲求であり、自分が良いと思うことは、人々にもそのとおりにせよ。「『何事でも人々か
らしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。』これが律法であり預言者である。」
この地も、自分中心の欲求の世界にならないために、神は万物を御子にお与えになった。

51 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/20 22:48
人は自分のことに対して神に祈るならば
 「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
  わたしたちの負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
  わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」ということで、
日ごとの食物で良いと思うような、欲求のない者となれ。悪魔が自分の権威や栄華を求めるなど、
人々に対し、世間に対し、諸々の自分の欲望を求める妄執だから。欲求がある者は、人々に対し、
負債を背負う者となる。妄執に従う者は、生存の素因をつくる。どのようなことでも、人々に対
し、悪いこころで挑む者は、苦しみの素因をつくる。
「苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平
等である。」ブッダのことば 「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがし
ている。」イエス  神は全ての人々に対して平等で公平。しかし、清い心でいて、天国に入っ
てしまえば、それまでの負債はゆるされ、皆平等に同じ報いを受けるのだが、この地の人々に対
しても平等で公平なのです。

誰かに対して、打ち勝とうと神に願い求めても、神は聞き入れない。この世を望み、神に祈り求め
ても聞き入れられない。その人の望みのために、負担を背負う人がでてくるからです。
それより、人々に対し負担をかけないよう心得ておくべきです。しかし、知らないうちに負担をか
けるのが人でしょう。完璧な人はいません。自分に対し負担をかける人もゆるすべきです。また、
人のあやまちもゆるすべきです。そうすれば、天の父もゆるしてくださるという。
また悪魔の試みに会わないように祈り求め、この世を天のように平安に生きることを祈るのも、そ
の人のこころが天にあるためです。


52 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/21 21:44
誰に対しても、打ち勝とうとしてはならないし、地上のものにこころを奪われてはならない。
自分の権威と栄華を求めて、世間に打ち勝とうとしてはならない。人はへびに騙されて、悪
魔を内に宿し、その試みと共にある存在となった。神に対しては「神のように善悪を知る者
となる」邪念を受け入れ、人々に対しては「人より自分の栄華を勝ち取りたい、権威を誇ら
しめたい。」という邪念が無意識の内にあるということを私は知っている。そして、地上の
ものを享受するこころを得た。そして、その思いが死と共にあるようになったのです。

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」その言葉に従
うことにより、悪魔の試みに打ち勝つ。人は他人より勝ちたいと思うなら、その人に勝たせ
てやりなさい。世間において、自分の栄えを誇らしめたかったら、質素にしなさい。そのく
らいのこころが必要でしょう。また世間から利を欲せば、世間に利を与えることは、あたり
まえです。しかも、世間に利を与えておきながら、自分はその利を享受しない。悪魔は地上
のものにこころを奪われるようにしたからです。

地上のものにこころを奪われるな、何を食べようかと思い煩うな、など、欲望からこころを
解脱させるには、ブッダは修行により達成するものとした。イエスは、人々からしてほしいと
望むことは人々にもそのとおりにせよと教え、人々が理にかなった平安を得る心得を知ること
ができた。御言により、何が善か、何が悪か知ることができた。しかし、「わたしたちは、こ
う思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」
ローマ人への手紙 「信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそう
ではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」と。


53 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/22 21:41
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、
神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこの
キリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それ
は神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のが
しておられたが、それは、今の時代に、神の義を示すためであった。こうして、神みずから
が義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」「父はだれをもさばかな
い。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。それは、すべての人が父を敬う
と同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。よ
くよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じ
る者は、永遠の命を受け、またさばかれることながなく、死から命に移っているのである。」

イエスは言葉と行いで天の父を現されたのですから、天の父が地上に現れれば、哀れみ深い
存在であること、見えない父が天にはそのような存在でいると信じることにより、義とされ
る。神は愛であると認めることです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」
と言うことができない。」から、天の父が地上に現れて、あのようなことをなさったと信じ
者は救われているということです。

「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。」でしょ
う。罪過を認め、人は一切を誇らず、イエスを信じることにより罪がゆるされるのです。

54 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/24 01:39
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである。」イエス
神は愛である。人が見ることができない天の父をこの世で現されたイエス・キリスト。イ
エスを主「であると信じれば、その恵みが受けられるのです。「わたしたちは、父なる唯一の
神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。」その
神と一つになられたイエス。「わたしと父とは一つである。」神はイエスで、イエスは神
なのです。私たちは、悪魔に従った者であり、罪人なのです。私たちは、神に帰すること
はできない。しかし「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下
さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともし
ないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、そ
れはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」

苦しんでいる者、貧しい人たちなど、この世の弱者を哀れみ慈悲を垂れたイエス。サタン
は栄華を得る力を人に与えたが、それに漏れた人たち。そのような、苦しむ人がないよう
な御国がくるよう、愛をもって祈ることで、真理の御霊を受けることができる。

 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
  みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」

主には哀れみがあり、神は慈悲深い存在であった。どうか、その主があがめられ、この地も
平安と安穏なる日々がきたりますように祈ることにより、御霊を知ることができるのです。
自分のためではなく、人々の平安と安らぎを祈るとき、永遠の命と共にあり、その思いがい
つまでも続くよう、イエスはあがないの対象となられたのです。そして、人にその思いがあ
るとき、天の父は喜ばれているのです。

55 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/24 09:48
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、」ブッダのことば
修行し、妄執を打ち破り、この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)に到達してなす
べきことは、ということである。人はこの世に存在する限り、肉体を通じて、どのような
思いでいなければならないかという、仏教の最終目的でもあります。

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」「あたかも、母
が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対し
ても、無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なき怨みなく敵意なき
慈しみを行うべし。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないできる限
りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。この世では、この境地を崇高な境地と呼
ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関す
る貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」ブッダのことば

「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけなさい。」聖書
仏教もイエスの教えも、全ての人々に対し、慈悲深い者となることが目的なのです。「いと
高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈
悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」

見えない神と、慈悲深いイエス・キリストをこころに思うことによって、人は死ぬまで慈愛
を重んじる。これが、神の恵み。地上の思いの者は最後は滅びである。御言を受け入れ、愛
する者は、慈悲深い神に帰する。人のこころが慈愛を重んじれば、永遠の命に至り、地上の
ものにこころが囚われているならば、こころと共に滅びる。


56 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/25 01:08
「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたが
たの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたのところに助け主はこないであ
ろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言
ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父の
みもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと
言ったのは、この世の君がさばかれるためである。」イエス

イエス・キリストは、この地で神の行いをされた。そして、神の国を現されたのである。
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイ
エス・キリストを知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになった
わざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。」

「あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」「持ってるものをみな売り払
って、貧しい人々に分けてやりなさい。」それらが神の栄光である。哀れみ深き神を信じ
れば、永遠の命の国に入る。イエスの行い、言われたことに[そのとおりです]とする者
は、神の国を望む者となるのである。神の国は病人もわずらいなく、財産に愛着なき者は、
地上の財に対して、自己の所有物という思いもない永遠の命の国に入るのです。

「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」見るという
肉からではなく、あの様々ないやしをされたイエス・キリストをこころに思い、天であの
方が私たちを見ておられると思うことによっても救われる。イエスは神の印象を人々に与
え、それが新約聖書となり、その印象とともにこころに留めるならば、存在し分離してい
るよりも、人はこころに神を持つようになるでしょう。

57 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/26 00:45
「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるだろう。それは、
自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせる
であろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。」イエス

慈愛と喜びと悩み、思い煩いのない世界と決して死を味わうこともなく、「この山に、動
き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成る」と思えるほどの自信と勇
気のある世界を知るでしょう。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安と安ら
ぎの世界を。そして、「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座して
おられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引
かれてはならない。」とあるその言葉の重要性を知るのです。

私は地上のものに心を引かれていた。地上のものにこだわっていた。それは、何も知らな
かったからです。悪魔の「権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。」それは、人
に打ち勝って、地上のものを貪らせるような妄執であった。邪念を受け入れてしまい、現
在の通常の境地に戻ってしまったのです。

終わりの日、きたるべき事が起こる時、そのようになるでしょうか。地上の世界が全て失
われる時、神と御言を重んじて生きていた人々は、永遠の喜びと慈愛に満ち溢れた世界に
入り、その世界に反する地上のものに心を引かれていた人々は、拒絶してしまい入れない。
「万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。」その神に帰することができる
ように、イエスは御言を残し、人々が地上より天上を思うように、神はこのキリストをあ
がないの供え物とされたのです。


58 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/27 22:01
「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」
コロサイ人への手紙  「地上のものに心を引かれてはならない」そのことは、修行完成者
ブッダも言っている。ブッダは、イエス・キリストがこの世で罪のゆるしと、人々のあがな
いの対象とされる以前、神の義を教えたのです。罪のゆるしの神の子が現れる以前、ブッダ
のことばが光であり、原始仏教はイエス・キリストに対立するものではなく、永遠の命を完
全に得た者は、イエス・キリストをあかしする者となる得るでしょう。

「内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな智慧あり、黒
と白(善悪業)を超越した人」「あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足
をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」ブッダのことばより

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた
がたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」
創世記

善悪の両者に汚されていないブッダ。世間から離れ、自然の中で修行することを教え、神の
創造したものを喜び、神の望む者となるように教えを説いたのです。
「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずか
ら満足すべきである。」「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著な
き人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。」

人は世間から離れ、ひとり遠ざかって暮らす生活はできないかもしれませんが、快楽や享楽を
追い求めることなく、自然を喜びに感じることも必要ではないかと思います。


59 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/28 23:06
牛飼いダニヤがいった、
「わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河のほとりに、わたしは妻と子と
ともに住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降ら
そうと望むなら、雨を降らせよ。」
師は答えた、
「わたくしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿
りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、欲情の火は消えた。神よ、もしも雨を
降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ダニヤとブッダがともに語り「神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」と
言っているが、〔怒ることなく、心の頑迷さを離れ、欲情の火は消えた。激流を克服して、
すでに渡りおわり、彼岸に到達している。わが心は従順であり、解脱し、いかなる悪も存在
しない。財産もなく、牡牛のように結縛を断ち、くさい臭いのする蔓草(煩悩)を象のよう
に踏みにじり、わたくしはもはや母体に入ることはないであろう〕そのようなことをブッダ
は言われ、「神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」と言われたら、怱に
大雲が現れて、雨を降らし、低地と丘をみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次
のことを語った。〜

怒ることなく、欲情の火は消え、激流を克服して彼岸に到達したブッダ。「あらゆる宇宙時
期と輪廻と生ある者の生と死とを二つながらに思惟分別して、塵を離れ、汚れなく、清らか
で、生を滅ぼしつくすに至った人」その人に神は雨を降らせた。神は生存の輪廻に陥らない
ことを望むのです。

60 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/01/31 23:30
―「喜び生ずれば悩みが生ずる」―ブッダがそのように言っているように、「有ると言わ
れる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、その他考えられるもので
あって、好ましく愛すべき意に適うもの。」それら人の手で造られたいかなるものであろ
うと、それが人であろうと、自ら意に適うものによって、苦悩が生じる。
天には、失われるものより永遠の命にあるものを愛した者が入るのであるが、病人は治り、
身体に不自由している者は直る。貧しき者は存在せず、飢えも渇きも存在せず、持つ者、
持てぬ者は一切存在しない。自分の家、妻、兄弟、両親、子さえ存在しないのである。

−悪魔パーピマンが言った、「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について
喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことが
ない。」
−師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に執
著するもとのもののない人は、憂うることがない。」

罪のゆるしのない時代に、ブッダは一切の自分の所有物を捨て、家族と共に暮す生活を捨て、
出家修行者になることを奨めたが、それは、神に義とされるためである。永遠の命には、執
著するもとのものは何もないからである。

「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではそ
の幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである。」イエス
イエスもそのようなことを言っている。天には、持つ者、持てぬ者が存在しないからです。

61 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/02 21:02
しかし、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」イエス・キリ
ストは、その行為と言葉で天の父と神の国を現され、本来、人々は世の初めの人のように
失楽の要因から生まれたもの一切から離れることが神の義とされることを、神はこのキリ
ストを供え物とし、キリスト・イエスによるあがないによって義とされたのである。
神はより多くの人々が地上よりイエスを愛し御言を受け入れ、悔い改めにより永遠の命に至
ることを願っており、人々はイエスにより天の父を知り、御言に対してはたとえ守れなくて
も(そのとおりです)としなくては裁きから逃れられない。

「喜び生ずれば、悩みが生ずる」ブッダ。今まで幸福と思っていた全てが不幸に転ずる時が
来るかもしれない。この世の喜びに満ち溢れていた人々は、それが苦悩となって返ってくる
時が。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちに地震があり、またききんが起こ
る時が。兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させ
る時が。
「しかしあなたがたに富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからで
ある。あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あ
なたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」

この世の喜びは、すべて悪魔から来ている。その清算の時が来るかもしれない。悪魔からの
喜びは、初めからなかったように、それに見合った苦悩と災いが世界を襲う時が。人は一切
を離れて、人々との交際をも離れて、神のお創りなさった自然の中で喜び暮らし、この世を
厭い離れることに専念する修行は、多くの人々にとって不可能に近い。


62 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/05 20:53
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく手でさわったもの、
すなわち、いのちの言について―」
人は、初めからあったもののみによって神から義とされ、裁きを受けない。
「神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物をを種類
にしたがって造られた。」創世記
「草や木にも(種類の区別あることを)知れ。〜次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのもの
にも(種類のあることを)知れ。かれらの特徴は生まれにもとづいているのである。かれら
の生まれは、いろいろ異なっているからである。腹を足としていて背の長い這うものにも(
種類の区別あることを)知れ。〜次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別
あることを)知れ。〜次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別あること
を)知れ。かれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれは、いろいろ異なって
いるからである。」ブッダのことば
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜
と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」創世記
「これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろ異なっているが、人類にはそのように
生まれにもとづく特徴がいろいろ異なっているということはない。」ブッダのことば

天の父は、人だけは差別することはない。すべての人間以外の生き物を治めさせようと言っ
ても、初めは「いかなる生物生類であっても、怯えているのもでも強剛なものでも、悉く、
長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なのもでも、粗
大なものでも〜一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」ブッダのことば というよう
に慈しみをもって、大事にさせるということで間違いない。


63 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/07 01:30
創世記「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果実とを地の上
    にはえさせよ」    
ブッダ「草や木にも種類の区別あることを知れ」

創世記「神は海の大いなる獣と水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造
    し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。」   
ブッダ「水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、種類の区別あることを知れ〜次に、翼を乗物
    として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類の区別あることを知れ」
    
創世記「神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を
    種類にしたがって造られた。」    
ブッダ「小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、種類のあることを知れ〜腹を足と
    していて背の長い這うものにも種類の区別あることを知れ。」
    
ブッダ「これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろ異なっているが、人類にはその
    ように生まれにもとづく特徴がいろいろ異なっているということはない。髪につい
    ても、頭についても、耳についても、〜身をうけた生きものの間ではそれぞれ区別
    があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説
    かれるのは、ただ名称によるのみ。」
    
神は自分のかたちに人を創造され、どのような人も平等に愛する。イエス・キリストは地上
で技と言葉で神の栄光を現し、その神を信じる者は、天上でそのようになるのです。自らの
欲望によって、地上をこよなく愛する者は、平等世界さえ愛していないでしょう。


64 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/08 01:24
もはや地上に世の初めのものはない。世の初めのものはあっても、人自身が神のように善
悪を知り、賢くなり、目が開け「自分たちが裸であることがわかった」ので罪人となった
からである。つまり、人自身が初めのものではなく、日ごとの食物のために顔に汗して働い
ても、土に帰る。誰にも迷惑をかけずに、また、罪から生まれたもの―人の手で造られたも
のを愛さなくても土に帰るのである。しかし、「あすのことを思いわずらうな。あすのこと
は、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
その言葉は重要であることは間違いないのです。

人自身が悪魔の僕となった。もはや、人の生存から神の義を見出すことはできないのである。
しかし、「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」ブッ
ダとあるように、かれ(理法を知った人)は、生存の断滅をも邪念からきているということ
を知り、生存の断滅によっても地獄へ堕ちる因となることを知っているのである。

そして、どのようにして永遠の命に至るか。悪魔の僕となった人にとって、世の初めを目指
し、邪念から来たものを全て修行によって滅ぼす、とするのがブッダである。もはや、人の
存在から神の義を見出すことはできない。生きながら彼岸に至る道を説いているのです。何
が邪念から来たものか、つまり、人から来ているものは何か、神の義とされる永遠の命にあ
るものは何かを説示しているのです。内的にも外的にも、神の義を目指す修行がブッダの教
えなのです。

しかし、より多くの人々を救うためにイエス・キリストが現れ、イエス自身がその技で、天
の父を現し、その御言とともに、イエス・キリストを地上のもの全てより愛することによって、
永遠の命の国を受け入れることができ、永遠の命に至ることができるのです。


65 :名無しさん@3周年:04/02/08 02:46

いえす君のチンポの固さは最高だねェ〜

12人の尻を独り占めとは羨ましい

66 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/08 10:10
「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の
感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。」ブッダの
ことば
―「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色は
  どうしてあのように明朗なのであるか?」―
「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくす
ることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。」
ブッダ

永遠の命であり、世の初めは‘味わい’という感官もなく、足ることを知っていて、わずか
な食物でも満足する者だっただろう。雑務少なく、その生活は簡素そのもの。邪念からきた
欲のない者は、‘日ごとの食物で満足’し‘その日一日だけの苦労’をする。
もはや、人には味わいという感官が生起した。足ることも知らず、食の貪り‘何を食べようか’
という思いが生じた。そこで神への義を示すために断食が修行となるのである。
「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしてい
ることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。」イエス

人に知られず、神のお創りなさった森に住み、「わたしは何を食べようか」という憂いに導く
思慮を抑制し、「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足」し顔色
が明朗な者。初めは思い煩いもなく、苦悩もない人であった。「健康な人には医者はいらない。
いるのは病人である。」イエス 世間から離れて、ひとり遠ざかって暮らし、食に対する思い
もなく、自然を喜び楽しむこと、生き物を慈しみ愛することが全てであり、またそのように暮
らしている者には医者はいらない。

67 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/10 20:48
「日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく。それは、わ
たしには楽しみと思われる。」ブッダ
「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであ
ろう。かれらは快楽を求めないからである。」真理のことば

生も死もない境地、この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)に近い場所といえば、
人のいない林や森の中なのです。神は永遠の命の喜びのまま楽しめるよう、自然を創り、
初めにあったもの、慈しみのまま「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地
のすべての這うものとを治めさせよう。」とされたのです。

「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、
大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すで
に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、
幸せであれ。」ブッダのことば

永遠の命にあるものは慈悲なのです。それも、このような私たちの中にある慈愛とは格段に
違う、いかなることにも動じない、もっと大きな慈悲。そして、悩みなき、思い煩いない、
こだわりない世界でもあり、林や森の中で瞑想し、それを目指す。「今日われらは美しい太
陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった。」いつも、そのような気分でい
られるなら、幸せでしょう。

68 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/11 20:42
人が‘神のように善悪を知り’‘賢くなって’から人の存在そのものが罪となった。もはや、
あらゆる思考からさえ神の義は見出せなくなったのである。この地上は、神にとって不義の
地となり、人は一生、苦しんで地から食物を取らねばならなくなり、顔に汗してパンを食べ、
ついに土に帰る運命をたどらねばならなくなった。しかし、人は義なる天上を思うことによ
って、神から義とされるようそのひとり子を賜った。「彼は、わたしたちの罪のための、あ
がないの供え物である。ただ、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のためである。も
し、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。」

戒めを守れば真理がその人のうちにあり、御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛
が真に全うされるのである。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、
世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にな
がらえる。」

そして、イエス・キリストは、地上で見えるかたちで天の父を現されることもなさり、「御
子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父を持つのである。」

口のきけない人を口がきけるようにし、盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、
耳しいは聞こえ、死人は生きかえり............それらのことは、全て天上で父が行ってい
ることなのである。だから、地上で父を現された方は唯一、イエス・キリストであって、そ
の行いと、言葉とにより、イエスを主と告白する者は父を持つのである。地上よりイエスを
愛する者は天を愛し、「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見る
ことがないであろう。」とイエスが言われているように、いつまでも死を見ることのない者
となる。

69 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/12 20:34
神のように善悪を知り、賢くなってから人は罪人となった。その時以来、苦しんで地から
食物を得て、顔に汗してパンを食べ、つまり自活してみすから養う者となり、最低限の自
分の生活のために働く者となっても、土に帰る者となった。「見よ、人はわれわれのひと
りのようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久
に生きるかもしれない。」善悪の両者に汚されることなく、妄執を打ち破り、輪廻に堕し
ないと言われるブッダ。

「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのもの
に、一切のものが従属した。」ブッダ
「全世界は悪しき者の支配下にあることを、知っている。」ヨハネの第一の手紙

人は賢くなってから、自分の手で物を作り、更に自分たちの権威と栄華とを欲して、世間
をつくりなした。永遠の命にないものを求め、つくりなし、また喜び、誇るようになった
のである。ブッダは患いのある世間から離れた。修行僧に対しては、世間から離れること
を勧める。しかし、世間の中にあっても、天の父を現されたイエスを信じることによって、
サタンから護られるのである。本当に思うべきことは何か?命の言葉と命の国であると知
るでしょう。「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえ
る。」と書いてあるからです。

そして、私たちは何事も誇ることなく、それは自身に対しても、作りなした物でも、得た
ものでも誇ることなく、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と心からゆるしを乞
えば、神から義とされるのです。

70 :名無しさん@3周年:04/02/12 22:17
世界遺産とか見ていたら仏陀の聖地もヨーロッパの教会も
独特の雰囲気がありますね
ああいった生活と共にある信仰心は万国共通ですね

71 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/13 22:38
死を味わうことがないという境地を知った。ブッダが言われる「この上なき最上の喜びの
境地」であり、無量の慈しみの境地である。それからというもの神の存在は疑いないもの
となった。しかし、聖書に書いてあるような「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あ
なたにあげましょう。」というような妄執に敗れて、その境地を失った。神を知らず、地
上のことのみに囚われていたから。

肉体を失う死後もそのようなことがあるのだろう。だから、ブッダもイエス・キリストも、
地上より永遠の命にあるものを愛せと教えているのです。ブッダの聖地にいる人々も、ヨ
ーロッパの教会の人々もそれで救われているのでしょう。地上のことのみに生き、自分の
欲得のみに生きて、この世の楽しみに耽っていたから妄執に敗れた。

「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに
過失(道から外れること)は存在しない。」
しかし、イエス・キリストがあわれみ深き天の父を地上で現し、天上で行われている天の
父の行為を知り、それが私たちにとって真に望むべきものと思う時、私たちの罪過は存在
しないのです。そして、あわれむこころは永遠の命に入る道なのです。

また、「神様、罪人のわたしをおゆるしください。」とこころから懺悔する時も永遠の命
と共にいる。驕り高ぶる時、人は命の境地から遠く離れ、こころから悔いる時、人は癒さ
れるでしょう。永遠の命の国では、常に癒されている。

永遠の命にあるものを常にこころに抱き、妄執から生まれるものより勝っているならば、死
後、永遠の命に至るでしょう。

72 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/14 21:03
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の
いましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。』あなたがたは、神のいま
しめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」イエス

イエスもブッダも、永遠の命にあるものを説き、人間からでたもの(妄執からでたもの)
に固執しない(愛著)しないよう教えているのです。永遠の命にあるもの、天にあるもの
のみ善であり、人間からでたものは悪なのです。

罪なる人は教えを変化させる。罪のうちに地上を思い、言い訳を教え、聖者のはじめの
教えから離れてしまった。

悪魔―「あなたがヴェーダの学生としての清らかな行いをなし、聖火に供え物をささげて
こそ、多くの功徳を積むことができる。」
ブッダ―「汝は世間の善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその世間の善業を求
める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

  仏像を拝むことも、お寺に参ることも、念仏など唱えることもブッダの教えでは
  ない。人々はその言い訳を考えだし、ブッダの教えを変えてしまったのです。

 仏像を拝み永遠の命を得れるなら、お寺に参り永遠の命を得れるなら、何かを唱えて永
 遠の命を得れるなら、ブッダの修行は何だったのか?その人々は、ブッダを軽蔑してい
 ることになるでしょう。彼らから学んではならないし、罪なる人の教えからは、罪しか
 得られないのです。   
  

73 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/14 22:59
「プンナンカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに犠牲を捧げた
のは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げた
のである。」「プンナンカよ。かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利益を得
ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供儀に専念している者どもは、
この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えていない。」ブッダのことば

 希望し熱望し供儀する者は、ブッダに従っていない。あり余る金から神仏に供養したと
 しても、永遠の命にはつながらない行いでしょう。
 
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、『あなたに足りないことが一つある。帰
って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を
持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。』マルコ10 21

 あり余る金から神に供儀したとしても、その誠意は伝わらない。神は本来、供儀を求めて
 いない。天で行われているとおり、自分の持っているものを売り払い、貧しい人々に施し
 喜びを分け与える、そのことのほうが永遠の命につながる。
 
たとえそれができなくても、‘そのとおり’と認めなくてはなりません。天の父を認め、そ
して自分の罪を認め、神に深く懺悔する。そのようにすれば神はゆるして下さるに違いない。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」マルコ10 27
財産を誇り、自分の持ち物に愛着を示す。それをあたりまえと思えば、神に敵対する者とな
り、永遠の命に至らないでしょう。天では、あたりまえのように全ての人々が平等に喜びに
至っている。苦しみ困る人がいないようこころで思うならば、永遠の命とともにあるのです。


74 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/15 10:12
イエス
「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の
上席や宴会の上席をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。
彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。イエスは目をあげて、金持たちがさい
せん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レブタ二つを入れる
のを見て、言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた
のだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その
乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

ブッダ
「落穂を拾って修行している人でも、妻を養っている人でも乏しき中からわかち与える人
は、法を実践することになるであろう。千の供儀をなす人々の百千の供儀も、そのような
行いをなす人の功徳の百分の一にも値しない。」
―これらの供儀をなす人々の、大がかりな豊かな祭祀は、どうして、正しくなされた施与
の百分の一にも値しないのですか?
ブッダ
「或る人々は悪い行いになずんで、ものを与える。―生きものを傷つけ、殺し、また苦し
め悩まして。そのような贈与は、涙にくれ、暴力をともない、正しい施与には値しない。
同様に、千の供儀をなす人々の千の供儀も、そのような施与をなす人の功徳の百分の一に
も値しない」と。

利益を多く得る能力ある者が、多く供儀したとしても、ほとんど供儀にはならない。その
能力はどこから来たか知ったならば、得た金を使うことさえできない。乏しき中から献金
する者は、法を実践することになる。

75 :名無しさん@3周年:04/02/15 23:01
木曜の清掃行祈願−勤行・道場行事−法要の場合???

【 勤行次第(読経などの順番) 】

_.打敷を広げ、御宝塔・護符・仏具(印袋・数珠・経典など)を安置する
_.供物を整える(アカ碗に水を入れ・焼香し・賽銭を供える)
1.三礼
2.護身法
3.仏舎利尊 和賛
4.開経偈
5.摩訶 般若波羅蜜多 心経
6.雑阿含経 応説経
7.増一阿含経 三供養品
8.妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五 偈
_.延命 十句観音経
9.準提観音功徳呪(小呪・中呪・大呪)
_.大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多 理趣経
_.舎利礼文
10.十三仏真言(不動尊中呪・大呪を含む十三如来の陀羅尼)
11.回向文
12.普礼
_.供物を下げる(アカ碗を空け・香炉を下げ・賽銭を金庫へ保管する)
_.打敷を閉じ、御宝塔・護符・仏具(印袋・数珠・経典など)を仕舞う


76 :名無しさん@3周年:04/02/15 23:02
釈尊−涅槃会 2月15日


77 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/16 20:57
供儀に対しても、イエスとブッダは同様のことを語る。人々は宗教的行事に専念しても、
永遠の命にあるものを思わない限り、永遠の命には至らないということを知らないので
しょう。

 「かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。
 かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。」「一切の戒律や誓いをも捨て、(世
 間の)罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄で
 ある」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。―安らぎに固
 執することもなく。」ブッダのことば
 
「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹のもとで瞑想し、大いにみず
から満足すべきである。」ブッダのことば とあるように、修行僧が林のほとりで瞑想す
るには意味がある。そこで楽しむこと、自然の中で過ごすことが何よりも素晴らしいと思
えるようになることで、ニルヴァーナに近づき、永遠の命に至るのである。そこで、生き
ものの幸せを思い、無量の慈しみの意を起こす。

 妄執に囚われている者は、その慈しみのこころの大切さを、たとえどんなことが起きよ
 うと受け入れない。林のほとりで楽しむことさえせず、自然の中で楽しむことはない。
 それによって利得はないと考えているからだ。永遠の命は、利得を追うこともない安ら
 ぎの境地。仏像を拝むなら、お寺参りをするなら、何かをながながと唱えるなら、ブッ
 ダのことばに少しでも習い、普段から身を慎み、自然の中で楽しむことのほうが救われ
 ている。
 
仏像を拝むことも、長い祈りも、人間からでているものであって、「願い求める」欲念が
あり、貪欲ほかならないでしょう。 

78 :名無しさん@3周年:04/02/16 22:34



イエス=神>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>仏陀=人間




79 :名無しさん@3周年:04/02/16 23:28
キリスト教徒の中には神とイエスを同一視してる馬鹿がいるんだね。

80 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/17 21:05
イエス・キリストは、天で父がなされるように、地上で父の行いをなされた。「盲人は見え、
足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり..............」
マタイ10 5 愛の神を信じた者は皆、天でそのようになるのです。
また、たくさんの資産を持っていた者に対し「あなたに足りないことが一つある。帰って、
持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施してやりなさい。そうすれば、天に宝
を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。マルコ10 21
天では皆、そのようになるのです。資産のある者は取り上げられ、富んでいる者も、貧しい
者もなく、困っている人も、苦しんでいる人もなく、皆、喜びに満ち溢れているのです。

イエス・キリストは地上で天の父を現され、今、天にはあの方がいると信じる人は救われて
いるのです。しかし、「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、
天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」マタイ7 21
御旨を行えない者は、罪がそうさせているのです。できない者は「神様、罪人のわたしを
おゆるしください」、できても「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎま
せん」と思わねばなりません。天では御旨が誰も誇ることなく、あたりまえのこととして行
われているからです。人のうちに罪が入り、できなくなってしまっただけです。

神の恵みにより、「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行
われるとおり、地にも行われますように。」と祈れば、哀れみのこころがいつまでも保てる
でしょう。‘みこころが地にも行われますように’と思うこころは、天にある「平安」を思
う気持ちと、慈悲と哀れみのこころがその人のうちに宿っているのです。


81 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/19 23:00
イエスは神の意志のままであり、イエスは神としてもよいのです。神はイエスを通じて神
御自身を地上で現させようとして、この世に遣わしたのです。今、あの方が天におられる
と信じなくてはなりません。その言葉と行動で、天の父を現されたのです。天の父が人に
望むものは、唯一、天にあるものを思えということです。そして、イエス・キリストに従
えということです。そうすれば、永遠の命が得られるでしょう。

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じる
のであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。〜わた
しは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこ
と、語ったことをお命じになったのである。わたしは、この命令が永遠の命であることを
知っている。」ヨハネ12 44-50

多くの病人を癒し、盲人は見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、お
おくの資産のある者を貧しい人々に分けよと教え、この世ではない永遠の命にあるものを
語っている。それは、天で父がなされることですし、人が永遠の命に至ったならば、言葉
どうりになるでしょう。わからないことがあっても、イエス・キリストに従えばいいので
す。

もし、病人が治り盲人が見えたことに対して、サタンの行いと見るならば、その人のここ
ろは殺人者であり、‘自分の権威や栄華のために、人々を打ち殺す’ほどの妄執がその人
のこころの中に宿っていることでしょう。哀れみを悪とみなす者は、人殺しのこころが内
にあり、決して天国に入れず、哀れみを善とみなし、苦しんでいた人が苦しまなくなった
のを素直に喜ぶ者は、天を認めている。そして、あなたのなるべき姿を喜んでいるのです。
永遠の命のこころには、愛で満たされているのです。



82 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/20 21:19
仏教の最終目的が、無量の慈しみの意を起こすことであるのだが、世間から離れ(これも
理由がある)修行によって、原罪である妄執を全て滅ぼし、究極の理想に通じた上で、無
量の慈しみの意を起こし、永遠の命に至るのだが、イエス・キリストの出現により、祈る
者全てが永遠の命に入るようになった。それが、神の恵みである。

この地も、苦しんでいる者、困っている者、富んだ者、貧しい者がいないように祈り、全
ての者が幸福になるよう祈ること、そして、私はそれさえあれば何もこの地に望みはあり
ませんからと祈り求めることによって、永遠の命に至る。
 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
 みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごと
 の食物をきょうもお与えください。」
 
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、貧しい人々は福音
を聞かされている。」天の父が行われているように、彼らにもこの地で幸福であるよう祈
ること。ひとりひとりの力は乏しいのではあるが、御名があがめられ、より多くの人々が、
みこころを行うように祈ることにより、その人に慈しむこころが常となり、永遠の命に至
る者となるのです。その慈しみは、肉体を離れた時、さらに膨らみ、人知ではとうてい測
り知ることのできない無量の喜びとなるでしょう。そして、この世のものを求めるこころ
はなくなるが、どのようなこともできるという無量の自信と勇気とが与えられるのです。

御名があがめられ、みこころが地に行われ、全ての人々が幸福であるよう祈るならば、そ
の慈しみの祈りは天の父に聞き届けられ、全ての人々が無量の慈悲と喜びで満たされた幸
福に満ちた天国に生まれることができるのです。天国は愛する者しか受け入れません。互
いの幸福を願う者しか受け入れません。そして、どのようなこともできるという力が与え
られ、それは互いの幸福のために使われるのです。
 

83 : bn:04/02/21 06:58


84 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/21 16:07
今は、時として憎しみや怒りを持ってしまい、正しいと主張し相手を屈服させようとする
こと、わが思いのうちに争いをしてしまうこと、世の心づかいと、自分の目的のため、そ
の他いろいろな欲望のため、明日を望みあくせく働いていること、しかし、本当の私たち
の姿は愛のみなのです。しかし、それは感情をともなった愛ではなく、全てをゆるすよう
な愛。その国では、すべてを無限にゆるす霊の世界であり、正しい正しくない、悪い善い
の思いはなく、人間のように気に入る気に入らないという思いもなく、互いに全てを尊重
し、軽んじることはなく、また欺くことはなく、平安のままであり、安らぎに満ちており、
おさな子のように自分を低くして驕り高ぶることはなく、互いに慈しみ、互いに思いやる
こころの国なのです。

今、私たちは罪の内にあり、悪魔によってそれを忘れさせられてしまったが、本当の姿は
御言のままであると思い、御言を何よりも尊重することで救われる。そして、主に懺悔し
罪のゆるしを乞うことで救われるのです。永遠の命の国では、人間のような意識活動はな
く、この世で起こり得たことへの感受するこころはなく、人間が考えるような思考はない
のです。
「慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心ゆえに、
あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでい
るのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、
耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加
えられる。」ローマ 2 4−8

天を現しているもの、御言に従う者は永遠の命が与えられ、私たちがこの世で生きるにあ
たって罪を重ねて、自分の身に積んでいても、慈愛と忍耐と寛容との富でゆるされるでし
ょう。人は慈愛を現す時、魂が清まるのです。


85 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/22 16:10
「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。」ヨハネの第一の手紙 5 19
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのもの
に一切のものが従属した。」ブッダ

神のように善悪を知り、賢くなり、人は自らの手で様々なものを作りなし、自らを着飾り、
自らの手で作物をつくり、自らの手で住まいをつくらねばならなくなった。
「六つのものが生起するときに世間が生起して、六つのものがあるときに、交際をなす。
六つのものに依拠して、六つのものにおいて世間は害われる。」ブッダ
人はそれぞれのうちに六つのひとつを持っていて、その目的のため、いろいろな仕事に従
事し、それぞれの目的にあった意図をもって、それぞれのその(六つのうちのひとつの)
良心による判断に従って行動し、人々と交際をなす。人は自ら進んで世間におもむく時、
何かの目的があって世間におもむくのである。

あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、愛以外はおおよそ悪から来ていると思っても
よいのです。なぜなら、邪念に従う前は、無量の慈しみとすべてを無限にゆるすこころと、
決して驕り高ぶることもないこころだったからです。そして、この地のものに対する目的
もなく、この世のものを求めるこころも一切ない。人が神のように賢くなった以上、自分
が存在しないならどうなるかを考え、それに愛のみ加えれば罪なき者となることを考えだ
せるでしょう。人は愛だけで生きることはできず、しかし、人の行為そのものが既に神の
怒りを、自分の身に積んでいるのです。愛する者は裁かれない、それ以外の目的を行う者
は、それだけ神の怒りを積むのです。

ブッダは、その世間から一切離れ所有物も捨て、永遠の命に至る修行をするように教えた。
清らかな修行によって、妄執を打ち破り、罪のない者となって、無量の慈しみ意を起こす
ためである。そうなれば「決して母体に宿ることがないであろう。」と言われる。




86 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/22 23:16
「妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」ブッダ
愛が天で、無量の慈しみとなるように、愛の喜びがもっと大きくなり、この上なき最上の
喜びの境地となるように、人の欲念もまた死後、大きな邪念である妄執となり人に挑むだ
ろう。そして、欲念や冷たいこころが、より強い妄執となり、最上の喜びの境地を見なが
らも、その妄執が払いのけられないものとなり、命の境地を失う。

この世では、ほんのささいな欲念でも、哀れみのないこころでも、魂があらわにされたな
らば、大きな邪念であると知るのである。
 金銭を愛するこころは、略奪するという妄執に従っている。
 人に勝ちたいとするこころは、人に打ち勝ち滅ぼすという妄執に従っている。
 仕事に喜びを感じたならば、野望を抱き拡張を求め、支障のある者を打ち滅ぼすという
 妄執に従っている。
 この世の物を欲すならば、知恵をもってして、永遠の命の境地を打ち砕くという妄執に
 従っている。
 この世に夢を持ったならば、全ての権威と栄華を我がものとし、人々を我が配下に治め
 意のままにするという妄執に従っている。
 哀れみのないこころは、人を殺すという妄執に従っているだろう。
「(人と世間に)拠りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。
かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」ブッダ

 世間には、様々な妄執になるもとがあり、人のこころを悩ます。世間の中に存在して、妄
 執に従う者は、天には入れない。略奪する者、打ち滅ぼす者、殺す者、全てをわがものと
 する者、生存のための妄執と生存の断滅のための妄執を抱く者も、その他様々な妄執を抱
 く者も、安らかな国には入れないのです。 

87 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/23 22:06
人は貪欲に従うことによって、悪魔は世間において人に更なる罪を犯させる。天においては
誰でも平等なのである。「苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされ
ることなく、万物に対して平等である。」ブッダのことば 「律法の中でもっと重要な、公
平とあわれみと忠実とを見のがしている。」マタイ23

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っていると
すれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないこと
があろうか。」天の父は、天にあるものがよいと知っておられる。そして、求めてくる者に
御霊をくださるのである。だから、人は自分が人々からしてほしいと望むことがわかってい
るなら、天の父に習って、人々にもその望むことをせよ。
 「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」
これが、この世間で見えないようで存在する法則であって、ないようである法則でしょう。自
分だけの欲望は世間から果たしえない。世間から貪り求めようとする金銭だけの欲望や、人を
自分の欲望のため意のままに操る行為、「他をならかしめて自らの利を欲する」行為、「勝利
から怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。」感興のことば 30 とあるように自分の勝
利を目指す行為などは、後の災いのもとになる行為と言っていいでしょう。

 人は世間から人から、何か欲することがあるならば、そのように人々にもすることで、災い
 が回避できると考えてもよい。私だけがよいと思っているならば、それは悪魔によって錯覚
 させられている慢心でしょう。 
「上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつく
して行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと(名称と形態)(個体のもと)を滅ぼしつくし、得るべ
きものを得た人」ブッダのことば
 現世の利益を追い求めるこころに依るだけでは、苦しみの報いを受ける行為は回避できない
 のです。   

88 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/25 21:43
「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」天には、この地のものを望む
こころがないように、聖者は貪欲を離れるように教える。しかし、世間にあって、いろいろ
と人々からしてほしいことも出てくるだろう。それで、人々からしてほしいと望むことを人
々に言いつければいいのかということでもない。自分の欲求があるなら、自分でその欲求に
向かって求めるこころに従いなさいということでもない。なぜなら、それが悪魔に従うこと
だから。

 あなたは、人々からしてほしいと望むことがあるなら、そのように人々にもしてあげなさ
 い。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律
 法であり預言者である。」マタイ7 12
 
あなたは、天のことはわからないでしょうが、自分の欲することはわかっているではないか。
あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとす
れば、そのように人々にも自分がしてほしいと望むことをしなさい。― そうすることで、
世間にあって、むきだしの欲望のまま生きることを戒められ愛を失うことのない大切な律法
を教えられたのです。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」「神がおつかわしにな
 ったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。父は御子を愛して、
 万物をその手にお与えになった。御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、
 命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」
 
御子に従う者は、永遠の命にあずかる。御子を知れば、自分の欲求のみを世間に負担させる
ことが、悪いことであるとよりいっそう認識できる。


89 :名無しさん@3周年:04/02/25 21:45
アーメンを唱えると佛界が湧現します。

90 :名無しさん@3周年:04/02/26 10:04
幸福の科学スレか?ここは。

91 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/26 20:37
このスレは幸福の科学スレではありませんので

「『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。』これが律法
であり預言者である。」マタイ 7 12
「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によ
るのである。〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうでは
ない。かえって、それによって律法を確立するのである。」ローマ 3 28−31

―地上で天で行われることをなさり、言葉にも現されたイエス・キリスト―
  盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、
  さまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、財産のある者に、持っているものをみな
  売り払って、貧しい人々に分けてやりなさいと言われた。― それらは永遠の命の国で
  は天の父がなさっていることなのです。そのイエスを真の人、主であると信じる者は永
  遠の命を持つ。
  
天国では、困っている人、苦しんでいる人、富んでいる人、貧しい人がいません。皆、同じ
ように平安で喜びに満ちているのです。そう願い「天にいますわれらの父よ、御名があがめ
られますように。御国がきますように。みこころが、天に行われるとおり、地にも行われま
すように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」と霊とまことをもっ
て祈るならば、その人のこころの内に慈愛があり、あわれみがあり、平安を求めるこころが
あるのだから、天のものと一致し、律法が確立される。そのような愛には悪魔が存在しない。
地上のものに心を引かれるこころに悪魔が存在するのです。

よく信仰して、「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられる
のである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはな
らない。」コロサイ 3―そうすれば、律法は確立されるでしょう。貪欲を殺し、愛がある
者は、地上に負債をつくらないでしょう。 

92 :名無しさん@3周年:04/02/26 20:47
快適な山頂において、人里離れた森において、
ジャパとマントラとを一体化させて、ディヤーナヴァジュラをなすべきである。


93 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/27 22:40
「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹のもとで瞑想し、大いにみずか
ら満足すべきである。」ブッダのことば 詳しい用語は知らないが、永遠の命の境地を知っ
た者として、原始仏教のブッダと修行僧は、真の修行をしていたとわかる。なぜなら、この
上なき最上の喜びの境地は、自然を楽しむような喜びにも似ており、全てを忘れ、一切の悩
みなき、こだわりなき、思い煩いのない悟りの境地だからです。一切の煩悩を捨て、自然の
中で喜び、これが全てであると思うなら、永遠の命から遠くはないでしょう。そして、妄執
を打ち破り、全世界に対して無量の慈しみの意を起こせば完全なのです。

しかし、私もすべての人も罪を犯し、永遠の命も喜びも、変化のない慈しみのこころも失っ
たのであるが、イエス・キリストがその罪の代償として死なれ、私たちは、値なしに、神の
恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのです。ブッダの修行法
はごく僅かな者しかできません。私もできません。しかし、イエス・キリストが、天を現さ
れ、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように、御国がきますように、みこ
ころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」と霊とまことをもって祈ることに
よって、命のものとなれるのです。


94 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/02/27 23:12
「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている。」ヨハネ第一 5 その世界にあって、
世の人々の中にあって、イエス・キリストを信じることで、世に勝つのです。「神を愛する
とは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こ
そ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者では
ないか。」ヨハネ第一 5 3−5

世の人々が悪いといって、憎むというのことでは全くない。天の父が、悪い者にも良い者に
も太陽をのぼらせるように、全ての人々をゆるし、愛さねばならないでしょうし、世の人々
のように、地上のことのみに囚われた生き方に見習ってはいけない、そして、自らは世の欲
望にイエスを信じて打ち勝てということでしょう。なによりも、自分が世の欲に勝つように、
「世間すべてに背くことなく」信仰をしなければならないのです。

しかし、イエス・キリストが現れる以前は、原始仏教の修行法が一番の救いの道だったでし
ょう。誰も天を見えるようにした者はいなかったからです。信じることで、命のもてる存在、
今、天にいるのはあの方であるという存在を知ることもなく、いつでも、どこでも戒めを保
てるような存在がいなかったからです。

 「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのもの
 に、一切のものが従属した。」
ならば、ブッダの時代では、世間から離れることこそが、邪念から離れる道だったのです。 


95 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/01 19:57
「善にして、尊く、出離を得させ、さとりに導く諸々の真理を聞くのは、何故であるか。」
修行僧が出家してまで、ブッダの教えを聞くのは何故か。
「苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びると
ころを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、― かれらは、心の解脱を具現し、
また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老
いを受けることがない。」

永遠の命の境地であり、この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)からすれば、この世
一切は苦であること以外にはなにもない。人の存在自体が苦なのである。林のほとりで楽し
み、樹の根もとで瞑想し、この地上では、最も安らかな場所で迷いを滅する修行。―小舎の
中で何を達成できるのであろうか。樹の根元で瞑想し、大いにみずから満足すべきである。
静けさの中で、欲念なき、迷いなき、こだわりなき者となって、自然を喜べるような者とな
らないとこの上なき最上の喜びには近づけない。この世から離れるように、自分自身から離
れるように、‘すべての存在は水の泡か陽炎のごとく、一切は虚妄である’と感じる境地、
自分の悩みはほんの僅かなことであると感じるだろう。そして、闇でもなく、気絶している
ものでもなく、この上なき最上の喜びに至る。部屋の中で瞑想しても、そこからはまだ遠い。

仏教の基本は、善にして、尊く、出離することであり、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで
瞑想する。そして、輪廻の終滅を目的としている。

仏教からはブッダを超える人は出ていないし、出たとするなら、それは偽り者。その人々の
慢心によって得れるものは、輪廻の終滅どころか、迷いを生み出すばかりで、成仏できない
のです。ブッダの修行僧が、その厳しい修行を行っていたのに、仏教から他の修行で達成で
きるとする人々は、ブッダと修行者に対して、尊敬心をもっていない人たちなのです。


96 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/04 19:39
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種類のことがらを正しく観察することがで
きるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。
どうしてであるか?『およそ苦しみが生じるのは、すべて素因に縁って起こるのである』
というのが、一つの観察法である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察法である。」ブッダ ヴァーセッタ

善にして、尊く、出離を得させ、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧は、二つの
果報のうちの一つの果報が期待され得る。― すなわち現世におけるさとりか、あるいは
煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。

「行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商
人となるのである。行為によって傭人となるのである。行為によって盗賊ともなり、行為
によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。
賢者はこのような行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)
とその報いとを熟知している。世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り
立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。」ブッダ 二種の観察

「殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う。また罵りわめく者は他の人から罵られ、怒りた
ける者は他の人から怒りを受ける。業の廻転によって、掠め取られた者が掠め取る。」
神々と語る 戦争についての二つの説示

また、喜び生ずれば悩み(苦悩)生ずるとも言われ、喜びのもとのものの存在が、憂いの
もとになることも説かれている。

素因を残りなく離れ、消滅させるためにも、妄執に導かれた世間から出離することがブッ
ダの修行には必要だったのです。

97 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/06 12:59
「しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからで
ある。
あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」
ルカ6 24−25

修行僧は、世間から離れて、煩悩を滅ぼす真理の修行をしていたが、イエスは世間にあっ
て真理の修業をつむよう教えられた。世間にあっても、楽を追うことによって、後の苦し
みの因をつくることになるからでしょう。
「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あ
なたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着も拒
むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうと
するな。」ルカ6 27−30

 永遠の命に至った者は、敵を敵として認識せず、憎む者も、のろう者も、はずかしめる
 者も、たとえ頬を打つ者にも、愛する。敵を敵として識別し、はずかしめる者に対抗し
 ようとするこころはサタンから来ているのです。人がそれがわかるのは、死んでからで
 しょうか?しかし、死んでからは遅いのです。御言を受け入れ、耐え忍んで善を行って
 いる者は、永遠の命とともにいて、耐え忍ばず悪を行っている者は、死んでから大変な
 ことになることに気づくでしょう。

死んでからは、富を愛するこころはなかった、地上のものを愛し喜ぶこころはなかった。
自分の考え行為を賞賛し、また能力を認め愛してくれる者はなかった。今笑っている人た
ちは、死後大変なことになるのです。  

98 :実行委員長:04/03/06 13:24
止息法を体得すればいいのです。

99 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/06 20:25
世間から離れて、一切の所有物を捨て去り、善にして、尊く、出離を得させ、さとりに導く
修行をしたブッダの修行僧。ブッダは凡人より勝っており、出離を得させ、さとりに導く。
しかし、出離をせず、信仰あり在家の生活を営む人々には、次のように語る。「信仰あり
在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは
来世に至って憂えることがない。もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに
勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものを広く(道の人)、バラモンに問え。」
―ブッダのことば 蛇の章

 人の正覚者、罪なき者、目覚めた人ブッダはこのように言っている。在家の者に対しては、
 誠実、自制、施与、耐え忍びにより、来世に至って憂えることがないと。ブッダが、出離
 を得させ、修行をさせたのは意味があるのです。仏教では、出家して修行に励まなくては、
 永遠の命に至らない。仏教から、ブッダより勝っている者は、いまだに存在しない。
 
そして、妄執を打ち破り、究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきこと
は「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生け
るものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。また全世界に対して無量の慈
しみの意を起こすべし。〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解に
とらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、
決して再び母体に宿ることがないであろう。」ブッダのことば 慈しみ

 ブッダのことばからも、新約聖書からも、真理に忠実ならば、この世は耐え忍ぶことの他
 ならない。なぜなら、永遠の命には、この世のものに喜び浸って笑うこころがないからで
 す。仏教からは、出家して修行をし、妄執を打ち破り、罪過なき者となり、慈しみのここ
 ろを起こさねば、永遠の命には至らない。しかし、この世に神の子が現れて、在家の人々
 も永遠の命の国に入ることができるようになったのです。

100 :ネットサーファー@神の国:04/03/06 20:27
仏教から比喩を取り除いたら何が残るのであろう。

101 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/06 21:31
「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに
過失は存在しない。」神々と語る 咎め立てする神々

―盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、
財産のある者は、貧しい者に分け与えよ―
 天では、そのようなことが行われ、すべて苦しむ者、困った者が存在せず、貧しい者、
 富んだ者も存在せず、すべての人々が、慈しみ愛し、平等に喜びあっている。すべて
 をゆるしあい争うことなく、誰も自分の欲望のため、あくせく働く者もいない。
 
地上で天の父を現されたイエス・キリスト。あわれみを現され、平安に導く教えを語る。
その主に霊とまことをもって祈ることにより、罪過なき者となり、慈しむ者となれるの
です。また、平安を望む者となるでしょう。
―天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みここ
ろが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょ
うもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負
債をもおゆるしください。―

 「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と霊とまことをもって祈
 る者は、あわれんでいる。だから、罪過は存在しない者となる。貧しい者にも、喜びが
 あるよう慈しむこころもある。神の恵みによって、祈ることにより、この世で崇高な境
 地とともにいられるのです。霊とまことをもって祈るならば、仏教の修行は完成したの
 とほぼ同じことになるのです。
 
のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。のろう者ののろいなど祈る者には、届
きません。笑顔でその者を祝福してあげなさい。はずかしめる者にも、みこころが行われ
るように祈ってあげなさい。誰も、人をはずかしめることのないように。―そのような思
いでいることが必要でしょう。   

102 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/07 11:33
「あなたの上着を奪い取る者には下着を拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あな
たの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。」ルカ 6 29−30
 
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、
交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もしも
雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著
するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」 
「人々は『わがものである』と執著した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常
住でないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっ
てはならない。」ブッダのことば

 永遠の命には、この世のものに対する愛着はない。それは、死なないとわからないもの
 なのでしょうか?しかし、死んでからは遅すぎる。この世の愛着するもののために、妄
 執に破れ、永遠の命に至らない。しかし、たとえ御言どうり行えなくても、「神様、罪
 人のわたしをおゆるしください」と懺悔すればゆるされるでしょう。この世のものへの
 愛着は、邪念からきたものであり、自分の持ち物などに愛着することが正しいとする者
 は、悪魔が正しいとして天国を拒む者なのです。
 
「神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者に打ち勝ったからである。
世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼の
うちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から
出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨
を行う者は、永遠にながらえる。」ヨハネ第一 2 15−17
    

103 :名無しさん@3周年:04/03/07 12:02
>>1にある
邪念に従わなかった聖者の言葉に従う者は真理に従うこととなる。
の言葉が全てではないか
優劣なんてないと思うよ

104 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/07 21:27
ブッダとブッダの修行僧は、一切の所有物を捨て去り、妄執に導かれた世間から離れて、
その行いとともに完全を目指した。「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存
するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである。」(神々と語る 生
まれさせるものを) 世間から離れることにより、妄執から離れる修行をして「世の人々は
快楽に束縛されている。人々がくよくよ思慮するのは、逸れてよろめき歩くことである。妄
執を断じることによって『ニルヴァーナ』と呼ばれるのである。」(神々と語る) ニルヴ
ァーナを目指す。欲求を捨て去った場所が、ニルヴァーナに近く、「人のいない林は楽しい。
世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。彼らは快楽を求めない
からである。」(真理のことば 真人)ニルヴァーナを得て、究極の理想に通じた人が、こ
の平安の境地に達してなすべきことは、「全世界に対して無量の慈しみの意を起こす」こと
なのです。

しかし、イエス・キリストが天の父を現されて、〜盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は
きよまり、耳しいは聞こえ〜「天の父にいますわれらの父よ、みこころが天に行われるとお
り、地にも行われますように。」と霊とまことをもって祈るならば、慈しみのこころを起こ
し、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」と祈ることと御言によっ
て、地上を貪らない者となる。自分の欲より天の父を現されたイエス・キリストと、全ての人
々が天のように平安で、困ることもなく、苦しむこともない御国がきますように思っていなけ
ればならないが、慈しみと平安を愛するこころが、悪しき者から救うでしょう。

ブッダのように修行によって妄執を打ち破り、無量の慈しみの意を起こせるようになるか、
神の恵みによって、イエス・キリストをあがない、祈りによって慈しみのこころを保つよう
になるか。慈しみが、妄執である悪しき者に打ち勝つのがイエスの教えです。


105 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/07 21:30
修行により平安の境地を得て、《一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、
安楽であれ。〜全世界に対して無量の慈しみの意を起こし、上に、下に、また横に、障害
なく怨みなく敵意なき慈しみ》のこころを起こす完全な者となる。

地上で困った者、苦しむ者がないよう祈り、哀れみと慈愛のこころを保ち、みこころが地
に行われるようにと平安の祈りをささげる。自らは御言に背くことなく受け入れ、「罪人
のわたしをおゆるしください」と、神に懺悔し、一切の驕りを捨て去る。

 修行によって完成された無量の慈しみのこころを起こす者も、祈りによって哀れみと慈
 愛のこころを保つ者も、死後は永遠の命に至るでしょう。なぜなら、永遠の命の国は、
 完全な慈愛の国だからです。地上で慈愛のこころを保つ者は、死後も受け入れ、決して
 死を味わうことのない者の国に入る。
 
「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の
御旨を行う者だけが、はいるのである。」マタイ7 21 とあるように、何かを唱える
者も、偶像を拝む者も、地上を望み、自分のことに対して願い求める者も、死後はそれが
ないと気がつくでしょう。《その唱えるものはなかった。偶像はなかった。自分のこの世
の望むこころはなかった》と。慈愛のこころを保たず、また、この世の望みが勝っている
者は、死後、悪しき者、妄執に敗れる。

しかし、天で行われる「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり・・・・・・資
産のある者は、貧しい人々に分け与え・・・」全ての人々が困ることなく、平等に喜びを
分かち与えている天の父をこころに抱く者は、既に永遠の命の国を受け入れている。

死後、悪いところに陥らないように、天にあるものをいま受け入れておくこと。天にない
ものを天にあるとして、信仰の思い入れがないようにしなくてはなりません。
 

106 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/08 21:28
「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分
を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄
になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したと
て、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間
に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにし
ないで貸してやれ。」ルカ6 32-35

 永遠の命の国には、自分を愛するという思いはありません。
「しかし、このことは知っておかねばならない。終わりの時には、苦難の時代が来る。その
時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、・・・・・・・・」
テモテ第二 3 1

 自分によくしてくれる者、物をくれる者、誉める者、自分を愛してくれる者をそのことに
 対して喜んで愛しても、自分自身を愛することになるでしょう。自分の意にかなった者を
 愛したからとて、永遠の命につながらない。金品をくれるからといって、その者を愛して
 も永遠の命につながらない。自分の地上での境遇をよくしてくれるからといって、その者
 を愛しても永遠の命につながらない。返してもらうつもりで貸したとしても、物への愛着
 があるだけで、永遠の命につながらない。自分の利益があるからといって、その者に尽く
 すことも永遠の命につながらないでしょう。
 
自分の思いにかなっていない者にも、利益にならない者にも、嫌いな者にもよくしてやり、何
も当てにしないで貸してやること、すべてとは言えないが、人々にはあたりまえになっている
重要な行いです。 

107 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/10 20:06
「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる
神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」ルカ6 35

仏教の最終目的である慈しみ
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく、敵意なき慈しみを行うべし。立ちつつも、歩
みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっ
かりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、
戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母
胎に宿ることがないであろう。」ブッダのことば 慈しみ

 邪まなものに従って、慈悲を失い罪人となった。
 
 敵を愛する、のろう者を愛する、はずかしめる者を愛する、迫害する者を愛する、頬を打
 つ者も愛する、上着を奪い取る者も愛する、恩を知らぬ者も愛する、考え方の違う者も愛
 する、主義の違う者も愛する、主張の違う者も愛する、損をさせる者も愛する、悪人も愛
 する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
全ての人を、憎むことなく、さばくことなく、罪に定めることなく、また、対立を避けて
愛するなら、苦悩の因になるものがひとつなくなるわけだ。

 また、どのような人にも、どのような時でも、人に対して慈しみ愛するこころがあり、さ
 ばくことなく、罪に定めることがなければ、人に対して危害を加えることがないでしょう。
  

108 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/12 20:43
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側
は強欲なおおかみである。」マタイ7 15

これを信じればあなたは救われる。これを念じればあなたは助かる。これを唱えればあなた
は救われる。これを持てばあなたはよいことがある。これを朗読すればあなたに徳がつく・・
・・・・・・・などさまざまな信仰があるが、それらに警戒しなければなりません。それら
は、全て自分を愛するこころを助長し、また、この世を望ませるこころも助長するものもあ
るでしょう。死後、この世を望むこころはなく、自分を愛するこころすらなくなった世界に
出会った時、自分をこよなく愛する貪欲とこの世に望みを馳せる貪欲とで、その世界に入れ
なくなり、大変なことになります。

 信じるものはただひとつ、天にあるものを信じるだけです。
 祈ることはただひとつ、天のこころとひとつになる祈りだけです。
 
今、人間であるあなたのこころを助長するような信仰は、決して行ってはなりません。後々、
とんでもないことになるでしょう。命の国に入ることができなければ、大変なことになるで
しょう。にせ預言者は、人の思いにかなった言葉をかけてくる。にせ預言者は、‘このよう
にうまく対処すれば、後々この世でよい思いができる’‘このようにうまく努力すれば、よ
い’などと教えるでしょう。

しかし、イエスは「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者の
ために祈れ、あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者
には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取
りもどそうとするな。」と教える。

109 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/12 22:07
信じるものはただひとつ
 「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり
  ・・・・・・」地上で天で行われることをなさったイエス・キリスト。地上で苦しんで
  いる人々も、愛の神を信じ耐え忍んで生きれば、天で報われる。
 大金持ちに対し「持ってるものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうす
 れば、天に宝を持つようになろう。」地上で天で行われることを語られたイエス・キリスト。
 天では、愛の神を信じれば、すべて平等に喜びを得て、困り果てる者もなく、富んだ者も貧
 しい者もいないのです。
  その方が天におられると信じること。天にあるものを語られた御言を受け入れること。
  
祈ることはただひとつ
 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが
 天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物をきょうも、お与
 えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債もおゆるし
 ください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
  まず人への哀れみと慈しみのこころを持って祈ること。そしてまた、平安と安らぎの世界を
  願い、御言を伝えようと思うなら、平安と安らぎの世界を望むこころにも永遠の命があるの
  です。地上の物を欲するな、永遠の命に敵対する。そうすれば、天国に入り、負債もゆるさ
  れるでしょう。
  
信仰とは、永遠の命にあるものを信じ、得とくしてしまうこと。仏教は修行で慈悲を得とくする
が、霊とまことをもって祈る者は、既に永遠の命を得とくしている。人を哀れみ慈しみ、この地
上も平安と安らぎの世界を願うならば、決して死を味わうことのない境地に限りなく近づいてい
る。しかし、慈悲、慈悲と何度も叫んでもその境地に近づかない。何度も書きたくなるが、死な
ないという境地を知ったならば、そうなるのです。

110 :名無しさん@3周年:04/03/13 10:41
★★★ キリスト教カキコ紹介 −抜粋− ★★★ 
 http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=psy&key=1074208247&st=213&to=226&nofirst=true


111 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/14 00:13
「にせ預言者を警戒せよ。」信仰を求めてくる者に対し、この呪文を唱えれば救われるな
どと語り、更なる我が身の存続に対する思いをかきたてる。これを念ずれば、この世の希
望がかなうと語り、熱心に念じさせる。それらは、欲念をかきたてるだけです。欲念をな
くするのが信仰であり、ブッダは欲念を滅ぼすため、世間から離れて修行することを奨め
たのです。
 悪魔 ―聖火に供え物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる―
ブッダ ―わたくしは、その世間の善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を
     求める人々にこそ語るがよい―
聖火に供え物をささげることで功徳を積もうとすることも、呪文などを唱えることも、寺
などに自分の思いを叶わせるよう参り、それが仏道修行になることも、仏像を拝むことも、
ブッダは語っていないでしょう。
自分の欲念のため勤め励んでも、それは信仰ではないといえるでしょう。聖者の教えている
ことは、その人間のつくりなしたものによって頼み込むのではなく、「与えよ。そうすれば、
自分も与えられるであろう。」「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にも
そのとおりにせよ。」―‘人に与えなさい’ということです。実際、自分が労をなし、人に
与えるということを教えているのです。
「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退ぞけ、他人が与えようとするものを妨げ
る人々、―かれらは、地獄、畜生の胎内、ヤマの世界に生まれる。もしも人間の状態になっ
ても、貧窮の家に生まれる。そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯を得ることが難しい。愚者
たちは、それを来世で得ようと望むが、かれらはそれが得られない。現世ではこの報いがあ
り、死後には悪いところに堕ちる。」ブッダ 神々との対話 もの惜しみ


112 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/14 11:41
人はこの世のものを求めるこころに従ってはなりません。それを教えるのが、信仰であり、
永遠の命の国なのです。永遠の命の国には、この世のものを求めるこころがないからです。
ブッダは世間から離れて、この世のものを求めるこころである欲望を捨て去るために修行
に導きました。神の子は、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのと
おりにせよ。これが律法であり預言者である。」と言われました。人々からしてほしいと
望むことがあるならば、それだけ人々を愛すればゆるされるということです。人々に自分
の望む思いを馳せるだけでは裁かれるのです。

「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定め
るな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれ
ば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分も与えられるであろう。」ル
カ6 37‐38

「殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う。また罵りわめく者は他の人から罵られ、怒りた
ける者は他の人から怒りを受ける。業の廻転によって、掠め取られた者が掠め取る。」
「生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業
のいかんにしたがっておもむき、善いことをした人々は、善いところに生まれるであろう。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。功徳は、あの世で人々のよりどこ
ろとなる。」ブッダ 神々との対話 祖母

 何かを人々にしたら、自分に返ってくる。それが、良いことにせよ、悪いことにせよ。
 それを聖者は説き、ならば良いことをせよと教えているのです。また、自分のこの世
 を求めるこころに従い、努力によってすべて自分のものを勝ち得ればよいではないか、
 ということでもない。自分から進んでこの世のものを望むこころは悪からきている。
他人が望ませてそれに従う、快いを伴わない勉学などは別でしょうが。 
 
 

113 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/16 22:29
「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』
と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、
してくれるのです。」―イエスはこれを聞いて非常に感心され〜「よく聞きなさい。イスラ
エル人の中にも、これほどの信仰を見たこともない。」と言われた。マタイ8 より

人の命令に素直に従うことの尊さを教えているのでしょう。「行け」と言えば行き、「こい」
と言えばくる。何も思案もなく、おのれの思いによって言い逆らうことなく、素直に命令に
従う。永遠の命の国は、思案もなく、おのれの有不利益を考慮することもなく、自分の気に
入ったこと、気に入らないことにとらわれることなく、従順だからです。

そのあとで、「なお、あなたがたに言うが、〜この国の子らは外のやみに追い出され、そこで
泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」

永遠の命は、思惑もなく、自分に対する思いもない。従順になることが善だが、戦えという命
令に対して従順なら争う者となり、殺せという命令に従うなら、殺人者となる。人々に益をも
たらす組織に従順なら良いでしょう。

114 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/20 02:47
しかし、律法の行いではなく信仰によって神に義とされるのです。「律法の行いによっては、
だれひとり義とされることがないからである。」ガラテヤ人への手紙2

神に義とされるのは、行いではなく愛と安らぎです。なぜなら、義とされる天国には、肉の
行いはなく、愛と安らぎがあるからです。「あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなた
がたにされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」ガラテヤ

わたしたちがいま肉にあって生きているのは、わたしたちを愛し、わたしたちのためにご自
身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。人々は肉の思いに
よって命を失っている。神の御子は、力あるわざで天を現し、どのようなことが善なのかを
示し、悔い改めることを教えられた。苦しんで死ぬことを覚悟で、人々に命を示されたので
す。

天にはあの方がおられると信じ、悔い改めのこころを起こす者は、命の国のように安らぐで
しょう。安らぎは永遠の命なのです。

115 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/20 11:35
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」ローマ3
人々から盗み取ろうとするから、自分の名声のため、名誉のため、栄華や権威を求めて人
に打ち勝ち誇ろうとするから、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそ
のとおりにせよ。」と語られている。神は、盗み取られようとする者も、人によって打ち
負かされようとする者のことも思われている。その自分の悪に打ち勝ったからといって、
まだ神に義とされることはない。敵を愛したからといって、憎む者に親切にしたからとい
って、のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈ったからといって、あなたの頬を打
つ者にほかの頬を向けたからといって、敵を敵として、憎む者を憎む者として認知してし
まう自分の悪に打ち勝ったからといって、まだ神に義とされることはない。

あらかじめないものを、罪によって具えたわけだから、自分の罪から得たものに勝ったと
しても、誇れることはない。負債を背負った人が、負債を返したとしても、まだあるもの
に到達しない。また、天には自分を誇るこころはない。


116 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/03/23 22:31
罪によって、御言どうりのことができなくなってしまったのであり、義なる天では御言は、
何も誇らず、あたりまえのように行われている。
「もし、からし種の一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に『抜け出して海に植われ』と
言ったとしても、その言葉どうりになるであろう。」ルカ17

使徒たちは、主に信仰を増すよう聞いたら、主はそのように言われ、あなたは罪人だという
ことを先に悟らせた。
「命じられたことを皆してしまったとき、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに
過ぎません』と言いなさい。」ルカ17

私たちは、まず罪であることを先に自覚して、主を信じ、「神様、罪人のわたしをおゆるし
ください」と懺悔しなければいけないのです。命じられたことを皆してしまった者がいるで
しょうか?

117 :名無しさん@3周年:04/04/13 21:58
age

118 :名無しさん@3周年:04/04/13 21:59
今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。
佛既に過去にも滅せず。未来にも生ぜず。
所化以って同体。是即ち己心の三千具足。三種世間なり。

とはいかに?



119 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:05
今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。
仏、既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化、以て同体なり。
此れ即ち己心の三千具足三種の世間也。
迹門十四品に未だ之を説かず。法華経の内に於ても時機未熟の故か。
此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。
何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう。
 其の本尊の為体〈ていたらく〉、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、
塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、
迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。
十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。
八年之間、但、八品に限る。

120 :レンマ:04/04/23 22:54
> 仏、既に過去にも滅せず未来にも生ぜず
この思想は、釈尊滅後、数百年してのち、仏教界に流行した、
いわゆる(自称)大乗仏教の思想です。
釈尊の思想とはまったく別のものです。(非仏説)

> 是の如き本尊は在世五十余年に之無し。
あたりまえです。法華経は釈尊の説いた教えではないので、
釈尊が、曼荼羅やら本尊やら、ましてや「まっぽうの本仏」などと
でたらめを教えるわけがありません。(^-^;;


121 :レンマ:04/04/24 11:23
ブッダは”救う”ということをしません。
あくまで、本人が”解脱”するということを教えるのみです。

122 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/04/29 22:06
「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させて
くれないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの目の前の欲望また
は過去の欲望を貪る。かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいる
が、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する、―『ここで死んでから、われらはどうなるのだ
ろうか』と。」ブッダのことば

ブッダは地上を望ませるような教えは説いていないでしょう。

「『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。これらは皆、使
えば尽きてしまうもの、人間の規定や教えによっているものである。これらのことは、ひと
りよがりの礼拝とわざとらしい謙遜と、からだの苦行をともなうので、知恵のあるしわざら
しく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役に立つものではない。このよ
うに、あなたがたはキリストと共によみがえさせられたのだから、上にあるものを求めなさ
い。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思
うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」聖書 コロサイ人への手紙

一切の所有物を捨て去り修行に励むのではなく、イエス・キリストを信じて地上のものに心
を引かれないようにするのが、キリストの教えになるでしょう。地上のものを貪らないこと
は、自分で行わなければなりません。

123 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/05/08 09:04
「生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」
妄執に導かれた者は、永遠の命は得られない。そして、彼岸に到達したブッタは、生も死
もない境地に到達した。生きながら永遠の命に至った者は、当たり前だが、死もない境地
に到達したのである。そして、当たり前だが、彼岸では、五感を喜ばすことも、この世の
ものを追い求める貪欲は存在しない。五感を喜ばすことも、我が身の存続に対する思いも、
それは苦しみであると説かれている。

「有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられる
ものであって、好ましく愛すべき意に適うもの、― それらは実に、神々並びに世人には
『安楽』であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを
『苦しみ』であると等しく認めている。〜他の人々が『安楽』であると称するものを、諸
々の聖者は『苦しみ』であると言う。他の人々が『苦しみ』であると称するものを、諸々
の聖者は『安楽』であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」

「あの世も、この世も望まない」彼岸に到達した者は、何も望まない。今現在、五感に対
対する貪りを避けて、こころの平安を得とくするのが、真理のことばから学ぶ宗教。

この世のことから、この世のものを望ませるものは、宗教ではない。


124 :カミミタ ◆y7MWjAcJGA :04/05/28 21:41 ID:4v0po1WF
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、
結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り
人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するのである。」

「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうで
はないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向け
てはならない。」ローマ人への手紙 13 

色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛す
べき意に適うもの、神は人が喜びそうなものを全て苦しむようつくられた。人々は努力して、
それらを得るのであるが、例えないからといって人をねたむことはない。
「覆われた人々には闇がある。正しく見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開顕さ
れる。あたかも見る人々には光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らない獣
のような愚人は、安らぎの近くにあっても、それを知らない。」ブッダのことば

永遠の命の国は安らぎ。「世間には五種の欲望の対象があり、意の対象が第六であると説き
示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」
命の国のように、五種の欲望と意の対象を離れたならば、人は安らぐ。



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