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【タタター】禅と、浄土と、鈴木大拙 【如】

1 :名無しさん@3周年:04/06/02 18:13 ID:sOSPz4ZJ
禅学者としてだけではなく、禅者としても道元、大燈、盤珪、白隠につぐ日本が生んだ大禅匠の一人であった大拙師。




2 :神の愛の証言者 ◆IHSXPiND6Q :04/06/02 18:41 ID:vB1aQkaR
2get

3 :711:04/06/02 18:56 ID:7g17t6BJ
>>1さんへ
 はじめまして。私は西田幾多郎の哲学を学んでいる
 者なのですが、有難いスレッドを立てていただきありがとう
 ございます。
 のちほどまた質問をさせていただきたく存じます。
 禅についても、浄土教についても無知な私ではありますが
 (最近、親鸞聖人の著作を読み始めたばかり)
 何卒、ご教示賜りたくお願い申し上げます。

4 :名無しさん@3周年:04/06/02 19:04 ID:YS1wzNwf
「毛唐に禅がわかるものか」と平気で言ってのけたらしい。
そこが偉い。

5 :711:04/06/02 19:09 ID:7g17t6BJ
>>4さんへ
 奥様がアメリカ人なのに?
 そのような話は聞いたこともございません。
 
 

6 :1:04/06/02 19:49 ID:yMaw047F
>>3
質問に答えられるほど詳しくないです。
っていうか、みなさんのレス見たくて立てました。

7 :711:04/06/02 19:51 ID:7g17t6BJ
>>1さんへ
 鈴木大拙氏のどこに魅力を感じますか?


8 :1:04/06/02 20:14 ID:yMaw047F
魅力は現時点でさほど感じていません。
真宗入門を読んだばかりで、図書館からかりてきた全集をぱらぱらやってるだけですので。
魅力以前の興味の段階です。

今のところあえて言えば、行間から、言語や文章化できない宗教体験というものがあるのだな、と感じさせてくれるところです。

>>7さんは、どういうところに感じますか?

9 :711:04/06/02 20:29 ID:7g17t6BJ
>>1さんへ
 「真宗入門」私もだいぶ昔に読んだことがあります。
 どんな内容だったか忘れてしまいましたがw。
 私も実は鈴木大拙氏についてはよく判りません。
 西田幾多郎という哲学者がおりまして、私はその人の
 哲学について研究しているのですけれど、鈴木大拙氏とは
 金沢時代からの幼馴染であり、生涯を通じての大親友と
 言っても過言ではないと思います。(否、大親友どころか、
 西田哲学の根幹に関わるなくてはならない存在になっています。
 西田も禅師についておりますが、
 禅者としての鈴木大拙氏について知りたく思い、
 お邪魔をいたしている次第であります。
 有意義なレスが帰ってくると(・∀・)イイ!!ですね。
 

10 :711:04/06/02 21:03 ID:7g17t6BJ
>>1さんへ
 私は「妙好人」、特に浅原才一さんの宗教世界観を
 世間に紹介したというところに、その偉業を感じます。
 妙好人に共通して言えるのではないかと思われるところに
 @自らの回心(入信)経験を全く相手にしていない
 A大悲の親さま(阿弥陀如来)と直接語っている
 ことをあげたいと思います。
 相対の中でしか生きられない私が、即、阿弥陀仏という
 絶対と直接繋がっている。
 相対の立場からはどんなに努力を重ねても絶対になることは
 できない。
 絶対からの働きかけ(南無阿弥陀仏:よび声)によって
 絶対即相対の立脚地が開かれる。
 浄土真宗的立場から見れば、かく言われるのではないかと
 考えます。つづく
 

11 :1:04/06/02 21:07 ID:R1nGgF2t
>>9
現在、「鈴木大拙」(講談社学術文庫)秋月 龍眠著
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061596551/qid=1086176378/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-4998018-6925155

という本を読み始めました。まだ斜め読みの段階ですが。(ちなみに>>1の道元云々は、同書の前書きにある、直弟子秋月龍眠氏の言葉で、
「煽り文句」として引用しました)
西田幾多郎との交流もかかれており、
西田氏が、「自分の哲学をわからすには、『絶対矛盾的自己同一』を、一句一句、あるいは一語一語に、区切らないで、『絶−対−矛−盾−的−自−己−同−一』と、
お題目を唱えるようにやれ」といったことを、

「この上なく面白い。西田哲学の淵源をそのままさらけ出している。
お題目の絶対矛盾うんぬんは、少々理に落ちて、お題目的には上手く行かぬが、西田君の意図は充分にうかがわれる。不思議に面白い。」
「絶対がどうだ、矛盾が何だ、それが同一するとかしないとか、そんなことは地獄のそこへ捨ててしまって〜〜(中略)〜〜『絶対云々』は名号としては少し長すぎる。また、意味がありすぎる。
それならそれを『ナンマイダブ』に変えてもよい。 趙州の『無』にしてもよい。ただ一念でよい、往生の時期はひとりでにくる」

という部分が、とても面白いと感じました。何が面白いのか言葉では説明つきかねるのですが。
念仏にも、南無という部分と阿弥陀仏という部分には矛盾があり、そこが一体になっている。

近頃、私は、人間存在も、能力的にも、道徳的にも限界があり、好むと好まざると、自分は道徳的に
正しい人間にはなれないのではと疑問を感じています。
自分以外の大きな存在と、「主客」の概念のない一体経験が、1つのヒントとなっているのではと思いますが、上手くつかめません。

というわけで、西田幾多郎も鈴木も、まったくの無知で、正直理解を超えている部分が多いのですが、この板の方の書き込みを見て、
勉強させていただくつもりで立てました。

長文レススマソです。

12 :711:04/06/02 21:11 ID:7g17t6BJ
>>10のつづき
 これを禅的立場から見たらどうなるのか。
 禅には、「仏を見たら仏を殺せ」という言葉があるそうです。
 「悟だと思った瞬間が、魔である」という意味でしょうか?
 さきほどの@自らの回心(入信)経験を全く相手にしていない
 という事とリンクするようにも思われます。
 しかし、禅では阿弥陀仏という対象を建てないでしょうし、
 浄土往生などと言ったら、師僧に三十棒を食らわされるように
 思います。
 大拙氏の中で、禅と浄土教はどのような共通点があったのか?
 ここがキーワードのような気がします。

13 :真宗と禅宗の接点? 唯信鈔文意より 4 :04/06/02 21:24 ID:DwCsuc9k
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。
かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には
「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。
「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。
大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。
「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。
仏性すなはち如来なり。
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。
この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。
この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、
不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。
この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。
この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、
かたちもましまさず、いろもましまさず。
無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。
無碍はさはりなしと申す。
しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりと知るべし。

14 :真宗と禅宗の接点? 唯信鈔文意より 4 :04/06/02 21:25 ID:DwCsuc9k
この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(礼讃・意)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。
この一心は横超の信心なり。
横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。
これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。
この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。
これは『大経』の本願の三信心なり。
この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。
この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。
この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。
この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。
この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、
身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。
この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、
「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。
この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。
釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生に
あたへたまふとのたまへり。
十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。
釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。
われらがちち・はは、種種の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。
おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。
恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、
余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

15 :1:04/06/02 21:28 ID:Hk0iyDxs
>> 大拙氏の中で、禅と浄土教はどのような共通点があったのか?

「禅とは何か」のなかで、大拙によると、

「他力は、自力を尽くしたところにでてくる。窮すれば通ずるというのもこれである。
もうこれ以上はできぬと思うところがある。ここを突破する。(中略)
ここに別天地が開けてくる。そこに自分の意識していなかった力が働きでる。
それを真宗の人は他力と名づける。禅宗のほうでは大死一番という事になる。(中略)
真宗といい、禅宗といい、その説明するところは、非常に違うけれども経験そのものを、心理学の上から研究するにおいては、
私はなにも変わったことはないことと思う。」

私は禅も真宗もわからないけれど、どうしても自分の無力さや、道徳的の無価値さに気が重くなったときは、念仏を唱える癖をつけてます。
真宗的な行為かはわからないけれど、大拙のいう「最高実存」というものがあってもらわないとやりきれないというか。

禅では、自力で、己をむなしくする事により、世界との一体化をはかり、
真宗では、己の自力を尽くして、他力にすがらざるを得ない際に世界との一体化をはかるのかな?
理屈でこんな風に思うのですが。

大拙自身の言葉ですが、大拙の著作をいくら読んでも悟れるということはないのでしょう。
大拙によると、「悲」がキーワードだそうですが。

つづく。

16 :711:04/06/02 21:42 ID:7g17t6BJ
>>近頃、私は、人間存在も、能力的にも、道徳的にも限界があり、好むと好まざると、自分は道徳的に
>>正しい人間にはなれないのではと疑問を感じています。
>>自分以外の大きな存在と、「主客」の概念のない一体経験が、1つのヒントとなっているのではと思いますが、上手くつかめません。
お察しいたします。
しかしながら、正しい人間とは一体なんなのでしょうか
何故、そうなることを望むのか?
その根底には何があるのか?
考えてみる必要もありそうです。
私も正しい人間になりたいと思っております。
向上心があるからでしょうか。
しかしながら、正しいの根拠を
たずねてみるとますます分からなくなる。
時代により、価値観により、
正しいということさえ、「川の流れは絶えずしかも元の水にあらず」
といった風情で変化し続けている。
昨日の敵が今日の友、逆もまた然り。
「主客合一の一体経験」でさえ、吹けば飛ぶようなものでは
ないでしょうか。

17 :1:04/06/02 21:43 ID:k4MmjDOc
>>14
>この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。
>この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。

これも大拙の「禅とは何か」からですが、

「ここに苦しむものがいる。それを冷ややかな目で見ると、『悪い事をしたのだから、その苦しみを受けるのは当然だ、なにもそう救ってやる必要はない』
とこういう風にみる。けれども日の働きで見るというと、どうしてもそういう冷ややかな目では見ておれぬ。(中略)
もちろん科学の面から見ると不可能である。しかし、宗教の面から見ると可能である」

私は、昨日、小学校6年の女の子が殺人を犯した事件に触れ、殺された女の子の無念はいかばかりかはもちろん、そのご家族、
殺してしまった側の女の子とそのご家族、ショックを受けて寝込んでしまったというクラスメートさんたち、が、今ごろどれほどの地獄を感じているか、を想像してみました。
その結果、なんとか関わった方々が救われて欲しい、と、思いましたが、当然ながら、とても私の能力を超えています。

社会科学的に見れば、殺害した側は、(児童福祉的観点以外からは)「救いがない」と思います。
しかし、宗教的観念からは、やはり救いがあるのではないでしょうか。

大拙は、「道徳を超えたところに宗教がある」と同書でいっていますが、麻原や宅間のような、とても人間である私には許せない奴も、
「宗教的な大いなる実存(如来、菩薩)」は救いたいと思われているのかも、と思います。

つまり、「人間には許せないほどのものを許す存在」へのアクセス法として、「大慈悲」があるのでは。
弥陀の誓願にすがるのも、結果的にその最高実存への同一化へつながるのかな。


ずいぶん脱線してしまいましたが、、、。
私が大拙の著作を読んで感じたことは、以上です。

18 :1:04/06/02 21:46 ID:k4MmjDOc
>>17
×日の働きで
○悲の働きで

失礼しました

19 :1:04/06/02 22:01 ID:rsFENb9g
>>16
>正しいの根拠を たずねてみるとますます分からなくなる

おっしゃる通りです。
わたしの場合は、「正悪」以前の、自分自身が好み価値を置いている人格的な部分で、「こりゃないよな」ってことが多いので、
そんなときに、「情けなくなる」事が多いです。

せめて、自分が他人の幸せに貢献できない、また、それ以前に、他人の幸せを望めない事が多い人間なので、
その無力感から、自分の代わりに、自分以上の存在である菩薩や阿弥陀にすがりたく、ぼそぼそ称名している感覚です。

唱えて何か変わるかな?そうとは思えませんが、あまりにも救いがない事件が世界各国で起き、
で、自分自身はのうのうと、2chで煽りあったりしてる人間ですので、、、。


20 :711:04/06/02 22:02 ID:7g17t6BJ
>>17
1さんへ
「同体の慈悲」という言葉があるそうです。
悩んでいる人→なにかしてやれないか行為等を考え最善策を練る→
幸・不幸の結果が出る
という方式ではなく
悩んでいる人→いっしょに悩む→うううとうめく→うううとうめく
これこそが同体の大悲であると考えます。
どんなに時間がかかっても。100年かもしれないし、1分かもしれない。
幸・不幸の結果さえも想定せずにうめく。
これが、南無阿弥陀仏の心ではないか。
地獄に堕ちようとも、輪廻を繰り返そうとも、
あなたを絶対に手離したりするものか、という意志が
南無阿弥陀仏ではないか。
よび声とも言われます。正しく南無阿弥陀仏とはよび声ですね。
この心を指して妙好人は「親さま」と呼んでいたのでしょう。
 

21 :711:04/06/02 22:45 ID:7g17t6BJ
>>20
×幸・不幸の結果さえも想定せずにうめく。
 これが、南無阿弥陀仏の心ではないか。
○幸・不幸の結果さえも想定せず、全く同体となって
 うめいてくださる心
 これが、阿弥陀仏の心ではないか。
 少し、字足らずで申し訳ございません。
 

22 :名無しさん@3周年:04/06/02 23:07 ID:TkWUbLRd
>>11
>というわけで、西田幾多郎も鈴木も、まったくの無知で、正直理解を超えている部分が多いのですが、

どうも無知の主体が曖昧模糊としている感じがしないでもない
西田幾多郎や鈴木が無知ということなのだろうか
もっとも仏教的には、学ぶべきものが完全になくなった状態を無知(智)とも言うから、このような疑念
を抱くわたし自身において、それすなわち無知という概念は相応しいのかもしれない。

23 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/03 00:00 ID:SDZnZwSw
まあ、よく諸宗の異同を一つの山に登り口が種々あることに例えたりしますけど、
真宗の立場をそうした登山口一つであると見ることは全面的にはあてはまらない。

真宗は、山に登りきった人と登山口にすら就かない人との関係はどういったものであるのか?
を問題として明らかにするんです。真宗の行者は「登山をする人」じゃないんですね。
登山口のたとえを禅宗に当てはめると、どう表現できるんでしょう?

ちなみに真宗教義の上からは、「自力のはてに他力を見る」みたいなのは信心獲得へと
至る一つのあり方として認めはしますが、それが信心を得る唯一の道程ではないです。

また、弥陀仏の慈悲は「許し」ではありません。「慈しみと悲しみ」です。
凡夫の自業自得の罪を、たとえ仏といえども他者が「許す」ことには何の意味もないでしょう。

スレ違いなカキコだったらゴメソ。

24 :711:04/06/03 00:12 ID:aWrMjKO6
>>23
NBさんへ
問い@ 慈しみと悲しみとはいかなるものなのでしょうか?
問いA 凡夫の自業自得の罪とはなんでしょうか?
    犯した罪は個的存在である一者(私)だけの責任となるのでしょうか?


25 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/03 00:26 ID:SDZnZwSw
>>24
@については「子の罪を、親こそ憎め憎めども、捨てぬは親の情けなりけり」
なんてお歌がありますね。元ネタは法然聖人です。

Aについては、業の流れなんて、もとより覚れはしませんので回答不能とさせて
いただきますけど、自業自得は凡聖にかかわらず、罪福を問わず、仏教の
基本的立場ですよね。ってぐらいの意味でお考えくださいな。

26 :1:04/06/03 00:54 ID:HpZ66GWA
>>20-21
大変救われました。同感です。
自分の無能無力さ、品性のなさをかみ締めつつ、いただいたレスを今後も反芻しつづけようと思います。

>>22
わたしの文章力のなさから誤解を招いてしまいました。
もちろん、「私が」大拙、西田両氏の思想について無知であるということです。

27 :711:04/06/03 01:06 ID:aWrMjKO6
>>25
NBさん、ありがとうございました。
@のご回答については、真、その通りと思います。
Aのご回答については、仏教では縁起もまた説かれるところと存じます。
 縁とはなんなのでしょうか?
 縁とは、いろいろな関係性のことだととりあえず理解をしておきますが、
 自業自得の「自」は、何を本体として成り立っているのでしょうか?
 かならず、様々な関係性を吸収して、また影響されながら「自」と
 いうことも成り立つのではないか?
 となると、昨日の新聞を賑わせた小学生の痛ましい事件も
 私には関係ございません、というわけにはいかなくなるのでは
 ないでしょうか。
 自業自得というのはその言葉だけ取ると自己責任のように
 取られるが、オウムの事件も、イラクの戦争も、長野駅に
 マツモトキヨシがオープンしたのも、芥子粒ほどのファクターかも
 知れないが、自身が関わっていないところはないのではないかと
 思われるのです。これを西田は一般者的立場といい、
 前者の自己責任を語るときの自己を、個としての一者と言った。
 人間存在はこの両面を兼ね備えていると考えるべきではないだろうか。  

28 :711:04/06/03 01:33 ID:aWrMjKO6
>>26
1さんへ
 私はそのように言われるような人間ではありませんし、
 人にほめられるような人間性ももち合わせておりません。
 ほじくられれば、ほじくられるほど、情けない自分が
 あらわになるように思います。
 しかしながら、そのような私を、そのような私だからこそ
 ひとときも休まず心配してくれている方が
 いつでもそばにおられる。これを無量寿・無量光というのでしょう。
 浄土真宗に携わる方々は、このことだけは是非ともお伝えいただきたい
 と切に思います。
 
 

29 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/03 01:45 ID:SDZnZwSw
>>27
自業自得の「自」はいわゆる「流布語」ですよね?
無我説という時の「我」と直結して絡めるのは、ちょっとどうかと思います。
(もっとも、蓮如上人的にはそういった区別はなさってないようには思いますが、
でも、それはあえて、これとは別の話だと考えます)

と、いうのはさておき。

西田哲学においてどうであるかのコメントができるような資格などないので、
用いんとも捨てんとも、ただ何かのご参考になれば幸いと思うばかりです。

でもちょっと、個人的にもひっかかりますので、調べて考えてみます。
またよろしくお願い申し上げます。

30 :711:04/06/03 01:52 ID:aWrMjKO6
>>29
NBさんへ
誠実なお答えありがとうございます。
もう寝ますが、こちらこそよろしくお願い申し上げます。 


31 :名無しさん@3周年:04/06/03 02:17 ID:bcbZjHhb
大拙氏は、心理学的には「宇宙意識」という言葉を使っていました。
念仏でも、禅でも、心理的経験からすれば同じ「宇宙意識」に到達するわけです。
西田氏も、同じ「宇宙意識」を別の表現をしていただけだと思われます。


32 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/03 02:21 ID:SDZnZwSw
>>30
おお、わたしも寝ます。(「ぼく」を一人称として使ってきましたが、、最近しんどい。
って、どうでもいいかw)

でも、真宗教義以外の価値観でお念仏を論ずる意見を見ることができるのが2ちゃんの
醍醐味だと思ってますので、、いまさらながら、>>1さん。スレ立て乙華麗です。

33 :通りすがり:04/06/03 08:36 ID:whTYlpcj
自力と他力の話は、妙好人佐市の歌にも出てきますね。

「お前らが聞くのは その通り
お前らには何を言うても わからん
お前らは理屈でつめておるから わからん
そりゃわからんはずよ
自力で他力を聞いておるから わからんはずよ」

自力を尽くして、二進も三進もいかなくなったとき、絶望に沈んで沈黙する
ばかり。その次の手とは「念仏でも唱えるしかない」ということになると
思います。自力がボッキリ折れた他力だから救われる。ところが、最初から
他力を目指す場合には、他力に「自力」が入り込んでいる。最初から自分の
足で歩こうとせず、タクシーで楽に行こうという横着心が潜んでいる。
佐市が言う「自力で他力を聞いておるから」というのは、そういう偽他力を
示したものだと思います。

多分、異論百出だと思いますが、禅から入って念仏へ抜けるのは「狭く見えて
歩きやすい道」で、最初から自力を否定して他力一本で行こうとするのは
「広く見えてほとんどゴールに辿り着けない険しい道」だと思います。

34 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/03 08:58 ID:SDZnZwSw
自力は他力によって廃(すた)ります。
自力によって自力を捨てることはできないでしょうね。

たとえ念仏を称えるとも、自分の行とするかぎりは自力です。

35 :通りがかり:04/06/03 09:26 ID:whTYlpcj
>>34

>自力によって自力を捨てることはできないでしょうね。

自力でとことん行って、玉砕するしか手はないでしょう。禅、特に臨済の
公案禅は、それを前提にしていると思います。

>たとえ念仏を称えるとも、自分の行とするかぎりは自力です。

禿同です。自力の中には「他力のふりをする」というのも含まれます。
阿弥陀仏の顔色を伺う念仏は、いかなる種類であろうとも自力です。
「やむにやまれぬ念仏」というか、極楽浄土の「ご褒美」とは無関係の念仏
でなければ、他力の念仏にはならないでしょう。

36 :通りがかり:04/06/03 09:29 ID:whTYlpcj
佐市の念仏がすごいのは、「すでに救われてしまっている」という
自覚から出る感謝の念仏であることです。「救われたい」が自力の
念仏で、「救われてありがとう」が他力の念仏、と言えるかもしれ
ません。

37 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :04/06/03 09:45 ID:xvSgt/vg
>>33
妙高人・才市ではないでしょうか?
もしかしたら佐市ってのも歴史上はいたかもしれませんが。
>>11
西田は、言うていることはそのとおりかと思う。
だけど哲学者らしく言うことが荒削りだね。哀しいほどに。
まあ、しょうがないんだろうけど。

仏教では勝義諦と世俗諦をきっちり分けている。
同一ったって、その分別の無分別をいうのであって西田そのものを鵜呑みにしちゃうと
やっぱ哲学の範疇だけだね。

いいか?わるいか?は別。だけど哲学の分野に残した功績は評価せねばなるまい。

38 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :04/06/03 10:03 ID:xvSgt/vg
>>35
>禿同です。自力の中には「他力のふりをする」というのも含まれます。

なるほど・・・。
わたしはたぶんそうじゃないこと思って、念仏スレの渡海氏に尋ねたことがある。
渡海氏は知ってのとおり坐禅念仏を提唱してる御仁ゆえ、もしや・・・ってのあって私は問うた。

渡海氏はさりげなく否定をした。だからそれ以上は話は発展しなかったが・・。

禅でいう内省は、浄土門では内証というらしい。←NB氏・談。
直指人心のことだらう。

39 :通りがかり:04/06/03 11:24 ID:whTYlpcj
>>37
正しくは才市ですね。

>>38
日常に埋もれた人間がいくら「他力」を説いたとしても、所詮は「他力の
ふり」にすぎないでしょう。臨終の「末期の眼」で世界を見る機会、そういう
絶体絶命な体験はほとんどないでしょうけど、イエスの「神よ、私をお見捨て
になったのですか」という追い込まれた状況を経験しない限り、「他力」など
絵空事だと思います。阿弥陀如来に裏切られる度に飲み下す涙の量だけ、雨粒
がため池にたまるように「他力」が育っていくのだと思います。逆説的です
けどね、救いから突き放されること、一切の救いを諦めることから本当の他力
が生まれる。仏教の救済というのは、世界が変わるのではなくて、世界観が
変わるのですから。

40 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :04/06/03 12:55 ID:SFwPTx4p
>>39
>絵空事だと思います。阿弥陀如来に裏切られる度に飲み下す涙の量だけ、雨粒
>がため池にたまるように「他力」が育っていくのだと思います。逆説的です

私は浄土門には無知ですけど、私と同じようなことを貴殿は考えてるんですね。

だけどこういう書き込みってのは真宗スレでは見たことがないんですよ。
一回だけ見たことがある。
それは阿弥陀如来に繋ぐ手綱を一瞬離すらしい。そこが悟り、って意味なのかと思うけど。
わたしは今でもそのレスは記憶してます。

>けどね、救いから突き放されること、一切の救いを諦めることから本当の他力
>が生まれる。仏教の救済というのは、世界が変わるのではなくて、世界観が
>変わるのですから。

禅でいいますと、これが人牛倶忘かと思います。
人牛倶忘の前段階では非常に虚しくなるかと思う。
禅病とか、この段階で発症するんでしょう。

私は仏門において、こういった苦の書き込みがないのが不思議です。
修行してても悩んだりすることはあるかと思う。
またそういう苦をバネにして開眼するのかと思うよ。



41 :名無しさん@3周年:04/06/03 15:13 ID:J11BWbu2
>>40
>人牛倶忘の前段階では非常に虚しくなるかと思う。
>禅病とか、この段階で発症するんでしょう。

あいもかわらずの、全くの無知蒙昧。

【警戒警報】
スレ腐敗菌侵入!
完全無視にてお願いします。



42 :南予出身:04/06/03 15:17 ID:6J1VFzfk
鈴木大拙の本読んだけど、学者のたわごとで失望した覚えがある。
テープも聞いたが感動しなかった。
 誰か、これぞ名著、というのがあったら教えてくれ。

43 :名無しさん@3周年:04/06/03 15:30 ID:EVoeH5H5
>>40
>人牛倶忘の前段階では非常に虚しくなるかと思う。

悟後の精進ですね。ここをあやまるとそのままで一生を終えてしまうかとおもいます。
煩悩即菩提ですので空虚感もまた信の一字で切り抜けねばなりません。
大きく疑を向けていく。
この大疑をもってして大悟あり。

いいスレッドができましたね。今後の論議にも楽しみにしています。



44 :名無しさん@3周年:04/06/03 15:57 ID:J11BWbu2
>>43
【警戒警報】
スレ腐敗菌侵入!
机の自作自演です。
完全無視にてお願いします。

45 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :04/06/03 16:31 ID:o0lNVSeO
>>43
>煩悩即菩提ですので空虚感もまた信の一字で切り抜けねばなりません。

龍樹は”生死大海を渡る”ってな言い方しますね。
やはり学僧だから上手い表現をするなぁ、とか思ってました。

身体が弱かったり、病人ですと力果ててそこで溺れ死ぬ。
そんな生死の切羽詰った様を表現したのかと思います。

>いいスレッドができましたね。今後の論議にも楽しみにしています。

掲示板でこんなことも話してはみたいですがね、
厨の多い板なのでそれも無理かと思います。
残念ながら・・・。

46 :名無しさん@3周年:04/06/03 18:14 ID:WiL77YGO
大拙は禅者じゃなくて、学者なんですかね。やっぱ。

47 :名無しさん@3周年:04/06/03 19:09 ID:whTYlpcj
>>46

大拙は、禅という枠組みを超えた求道者だったと思います。スウェデンボルグ、
エックハルト、ヤコブ・ベーメ、妙好人才市らの境地を禅と比較して紹介した
功績は大きい。

禅の悟りは言外の理であるから、言葉で説明するなかれ、という御仁が多い
ようだし、生前の大拙もそういう心無い批判を覚悟していたでしょう。しかし、
大乗仏教の根本である菩薩の精神にどちらがかなっているかと言えば、私は
大拙の方だと思う。

生悟りの癖して、「言葉で説くのは邪道」などと高ぶっている野孤は、単なる
祖師の面汚し。

48 :名無しさん@3周年:04/06/03 19:14 ID:whTYlpcj
>>42

それならば、スッタニパータや福音書をお読みになってはいかが?
それでも「つまらない」のなら、あなたは本来、宗教に不向きです。

49 :名無しさん@3周年:04/06/03 19:21 ID:8BvNFP0E
おれは大拙さんよりも、久松真一を評価するね。

鈴木大拙は禅の高級ガイドにすぎない (伊福部隆彦)


50 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :04/06/03 19:39 ID:wLE5l5ZW
>>46
禅者、学者に関わらず全ての人間はいいところを持ってるよ。
ただ大拙だけに傾倒するのもどうかと思うよ。
教外別伝。師から伝えられる教え、ってのも師は多い方がいい。

良寛が素敵だとしても、良寛流の生き方では女房・子供は食わせてはいけないね。
素敵だから、って逝っても即それが世俗にオールマイティーに通用するわけでもない。
だけど「心のありかた」ってんなら普遍的に通用はする。

まあ、ここも分別智なんだろうけど。


51 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/06 21:43 ID:brwEoyhA
ううむ。

他力は育ったりしませんので。
他力「への」正信。が、育てられる。ってんなら
概ねのところで同意できないこともないですが。

と、考えます。

52 :711:04/06/12 21:55 ID:vVnsp93C
>>51
NBさんへ
ご無沙汰しておりました。いかがお過ごしでしょうか。
「楽しく語ろう親鸞会」というスレッドで、親鸞会の方々と
他力について教学的な話し合いをしております。
私自身は、真宗の教学については初心者の極みといったところですが、
332という方のご意見が非常に明晰で、感嘆しているところでございます。
よろしければ、一度ご覧下さいますよう。

53 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/14 00:14 ID:TXj6Ai+e
>>52
こちらこそご無沙汰でございました。西田哲学。宿題が全然こなせておりませんで。。

今日はとあるお寺のご法要に朝昼夜とご法縁をいただいておりました。
「楽しく語ろう親鸞会」のスレ、ちょろっと読ませていただきました。
いやあ。盛り上がってて重畳。重畳。

332さんは、たぶんぼくの予想では、もう、すごく信頼の置ける「あのお方」
か、はたまた別の「あのお方」だと思います(w いえ、違ってたら違ってたで
一層ありがたいですが。

>332という方のご意見が非常に明晰で、感嘆しているところでございます。
には激しく同意です。

まあ、個人的な趣味の範囲内の話としてですが、ぼく自身は自分のことを
「罪悪深重の凡夫」だなんて思えたことなど一度もないです。あはは。
阿弥陀さまのお目当ては「悪人」でしょうけど、親鸞聖人のお目当ては「このわたし=NB」
だと思うんですね。
「悪人」のやりとりは、親鸞さまにすらも内緒で如来様とだけこっそりするもんです。

関係ないかもしれませんが、「示談・談合はこうたのんだ、こう信じたの話をする
のではない。信を獲たか獲ぬかを沙汰するのだ」
なんておっしゃられた先哲がいらっしゃいましたね。なかなか深いです。

親鸞会のスレはここしばらくはロムすらしてなかったんですけど、またカキコしちゃった
時があったらば、よろしくお願い申し上げます。


54 :NB ◆YIoCB90ZbI :04/06/14 01:16 ID:TXj6Ai+e
>53の
>「悪人」のやりとりは、親鸞さまにすらも内緒で如来様とだけこっそりするもんです。

だけだと、キリスト教みたい。(遠藤系?)って言われるような気もするんで、
あくまでも個人的な意見としてのカキコとしておきますけど、

仏教とは、法を悟るために修行することじゃない。教を喜び信ずればおのずとそこに行が生まれる。
それだけです。
喜び信ずる心が生ずるのは、教の機に相応したるが故です。教を聞きて敬い、信ずる
ところに生まれる行が深かろうが浅かろうが、頓であろうが漸であろうが知ったこっちゃない。

菩薩は三祇百劫の永きを恐れたりはしないものです。また、永きを危ぶみ退転の疑いを
生じたりはしないもんです。退転したならばまた一から始めればいいだけの話ですから。
教を喜び敬い信ずるところ、一切の恐れを生ずることなく、またおのずと行が生ずるんです。
仏道を喜び信じ、求める心の前には、三祇百劫を百倍したとて須臾の間でしょう。

三祇百劫はただ仏のみの知ろしめすところ。行もまたただ仏のみのよく名づけるところ。
菩薩は日々、行を行と名づけることなくおのずと行じ、戒を戒と名づけることなくおのずと
戒め、律を律と名づけることなくおのずと律し、自らを菩薩と名づけることもなく、自らの
機根を忘れて菩薩道を歩むんです。

ですから悟りを得るための「修行」なんて言葉は仏教中の悪鬼羅刹です。他力の本願念仏、
浄土の真宗は、大乗の行者を倦むこと無く守護し教導したもう仏智のおはたらきにのみ、
「修行」という言葉を認めるんです。

それを元祖聖人は「浄土宗の人は愚者となりて往生す」と釈し、宗祖聖人は
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にて
やはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせ
て、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」と讃ぜられたのですね。

ああ、今日もまた酔っ払いかもしんない。っすけど。

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